三島由紀夫賞にみるポストモダン文学の系譜〜困ったときには宮本輝〜
おもしろいタイトルが思い浮かばなくてつい大げさなタイトルをつけてしまいました。
まぁこれは三島由紀夫賞の選評の中でも特に宮本輝のものに注目して、おもしろがりましょうとうお話ですので是非気楽に構えてください。
純文学ってこんなもん?
第20回に選ばれた作品は1000の小説とバックベアードです。1000の小説とバックベアード 佐藤友哉 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込むでも書きましたが、佐藤友哉さんほんとにおめでとうございます。しかし、それにしても佐藤友哉のはてなの言及数が非常に少ないですね。三島賞をとっても最大で25ぐらいですか…。はてなはホームグラウンドじゃないのかなぁ、でもはてなじゃなければどこで盛り上がっているんだろう…という出自の作家だと思うのですけど。
もしかして三島由紀夫賞が話題性に欠けるんでしょうか。うーんそんなこともないんでしょうけどね…。ただ純文学の賞だから賞金は低いですね。100万円って…知らないけどこんだけ苦労して手に入れる金はそんなもんなのか。電撃大賞と同じ額ですねw。スニーカー大賞は300万円らしいのでその3分の1ですか…。純文学はなかなかきつい分野ですね…。
選評の楽しみ方
三島由紀夫賞の選評は第16回、舞城王太郎の『阿修羅ガール』までしかアップされていませんが、この内容がまず熱いですね。舞城王太郎…選ばれたのにみんなあんまり褒めてない!特に宮本輝は辛辣です。
下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。
そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。幼稚に暴れているパフォーマンス、もしくは無邪気な媚としか思えないのである。
どっちにしても、面白くもなんともないただのこけおどしだ。
宮本輝http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/016/miyamoto.htmlから引用
いったい何人のおとなが「阿修羅ガール」を最後まで読めるだろうか。
舞城氏のなかには、何か形にならない大きなエネルギーがくんずほぐれつなままとぐろを巻いている。しかしそれはいまのところ支離滅裂で、氏自身が持て余しているといった印象を受ける。そのようなエネルギーは、まだ人さまにお見せできるものではない、というのが私の意見である。
宮本輝http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/016/miyamoto.htmlより引用
そもそも選評のタイトルが”お子さま相手”ですからねw。島田雅彦の選評もおもしろいです。
――ええかげんにせえや。
宮本輝サンはそういって、×をつけた。それに勝る批評はあるまい。許しがたいだろう、こんな奴。おととし中原昌也に授賞させたと思ったら、今度は阿修羅かいな。輝サンはマジで怒っており、最初に〇をつけた筒井サンの首を絞めそうだった。しかし、民主主義は残酷だ。私も福田和也も〇をつけてしまった。ほかの作品には〇が一つもついていないのだもの、判定を覆すのは困難だ。輝サンには気の毒だが、『阿修羅ガール』はブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。
島田雅彦http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/016/shimada.htmlより引用
高樹のぶ子の選評には同感と思える部分があります。
この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である。徹底した「まっとうさ」への反発と憧れが、不気味な熱気を生み出しているのは確かだろう。この作者の描く暴力は「痛み」ではなく「血なまぐささ」を読者に与え、登場人物に流れる血も赤くなく青い印象だ。要するに気色悪い。幼くはないし、コミックを越えてもいるので△にした。
高樹のぶ子http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/016/takagi.htmlより引用
この意見には深く納得しますね。
文学とコミックと
続けて高樹のぶ子の選評を引用します。ちと長いですが…。
生活体験の乏しい若い人が、二、三百枚の長篇を書こうとするときの困難さが、今回候補作六篇を読んでいて、強く印象づけられた。
まず、知り得た世界が狭く限られているので、人間関係が親族中心になりがち。登場人物たちは外部の異質な人間と知り合ったり格闘したりしない。親や兄弟姉妹、あるいは婚姻や性関係も含めて、みな同じ小さな円盤の上に乗っている。
その小さな円盤上の人物を動かして小説を書かなくてはならない、となると、登場してくるのは心理的な病癖である。幻が視えたり記憶障害にかかっていたり。限られた舞台を小説的に深めようとする場合、病癖はとても便利な道具なのだ。病癖まで行かなくても、エキセントリックな人物が必要になってくる。
さらに若い世代はコミック感覚だ。
コミックでなぜ悪い? という、今文学世界が大真面目に考えなくてはならない問題を別にして、とりあえずコミックの特徴をあげてみると……
高樹のぶ子http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/016/takagi.htmlより引用
TRPG界でもよく中二病だとか言われて、アニメやコミックで行われるような設定の話をすることに批判がありますね。実はこの問題はTRPGのみならず、近年のエンターテイメント作品全体の傾向でもあります。どこもかしこも”コミックでなぜ悪い”って問題を抱えているんですね。
このあたりのまともな理論というと動物化するポストモダンがあがりますね。正しいのか正しくないのか…どんなデータをとって何を証明すればいいのか、僕には判断できませんが、個人的には非常に納得できる内容でした。
三島由紀夫賞は実は批評も選考対象になるのですが、第12回では東浩紀の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』が最終選考まで残っています。筒井康隆がものすごく推しているのが印象的です。
この本を推すつもりで選考会に臨んだが、「デリダとはダレダ」という委員が多く、また「論文であり、文芸的ではない」ということで賛意を得られなかった。
この問題が文芸的などという範疇を遥かに越えた現代思想の問題であること、デリダがディコンストラクションの親玉であり、「脱構築」は現代文芸批評の根幹的なテクニカルタームであることなどを力説しても、「それは学問である」ということで考慮の他となった。「そんな人に自分の作品を批評してほしくない」という委員もいた。しかしこの本はそうしたレベルで退けられるべきものではなく、たとえ狭く文芸のレべルに限ってもわれわれの作品などどうでもよいくらいの、ことは最高水準の現代文学にかかわってくる問題でもある。選考委員は学者でもなければ評論家でもないのだから、難解な理論を隅から隅まで理解する必要はなく、せめて志の高さだけでも感じてくれたらと思ったが、それすら理解して貰えなかったことは返すがえすも残念であった。
筒井康隆http://www.shinchosha.co.jp/mishimasho/012/tsutsui.htmlより引用
このように、選評を読んでいるだけですごく楽しめますね。