クォンタム・ファミリーズ 東浩紀

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

東浩紀が小説で三島由紀夫賞をとったと聞いて驚いて読んでみました。なかなかの傑作でしてべた褒めしようと思います。

本作は量子力学的な平行世界をとりあつかった作品ですが、SFとしてのギミックや雰囲気は円城塔みたいな感じと言えば知っている方には分かりやすいと思います。数学的といいますか物理的といいますか、そうした分野の言葉を元の意味を微妙に残しつつも意味深に盛りこんであり、難解な印象を与えます。しかし、その実それらの言葉にはあんまり意味がないので分からなければ特に気にせず読み飛ばせばよいはずです。そもそもそうしたギミックは円城塔ほど精緻ではありませんし、そこがこの本の魅力というわけではありません。

むしろ、そうした数学的で無味乾燥でメタな記述が散見しつつも、登場人物たちが非常にウェットで人間くさく(人間の定義を考えはじめると人間くさいという言葉の意味は難しいですが)、一生懸命なところがこの本の素晴らしいところです。円城塔ライクな頭良さげな雰囲気で偽装した生々しい人間の生とか性とかがこの本の売りとなっています。こうした生々しさというのは社会学と接近しながら批評を行う中で身につけていったものなんだと思います。考えてみると秋葉原の事件やテロリズム、格差、郊外、そうした社会学的問題の生々しさこそ、実は文学が求めるところですね。昔の例で言えば桜井亜美の小説で宮台真司が解説を書いていたりします。

小説のアイデアとしてはそうした自分の世界以外の平行世界を”ゲーム”と関連づけたところが面白いですね。東浩紀動物化するポストモダンなどで書いている通り*1、ゲームのリアリティなどにも関心が深く、このテーマは東浩紀だからこそ書けたのでしょう。ゲームをゲームと割り切るのではなく、ゲームであることを忘れてその世界に没頭することを馬鹿げていると思わない感性はオタク的と言っても良いでしょうが、”現実”や”人間”といった言葉に拘泥する文壇にゲーム的感性を持ち込んだ功績は大きいと思いました。そうした感性に文壇が気づくのがむしろ遅すぎるという意見もあるでしょうね。

また、村上春樹の文学と美少女ゲームKanonに端をする選ばれなかった選択肢問題*2を直結するところも東浩紀ならではといったところで、読んでいて興奮を覚えました。村上春樹の35歳問題とは東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』 - 西東京日記 IN はてなで詳しく解説されておりますが、人生のなかで出来るはずのことと出来たはずのことのバランスが35歳程度で逆転し、過去にできたはずのことへの後悔などに意識が囚われることを言います。また、選ばれなかった選択肢問題とは、Kanonのゲーム中問題を抱える複数の少女たちの中からある一人の問題を主人公は解決するのですが、そうしたときその他の少女の問題は解決されず、主人公の知らないところで不幸になっているのではないかという問題です。これはゲームの中の登場人物(キャラクター)はその中で一回の生しか生きられず、一回限りの選択をするのに対し、ゲームで遊んでいるプレイヤーはそのゲームを何度も遊び、ありとあらゆる選択の結果を知ってしまうという情報の不均等から生じます。このメタ(プレイヤー)とベタ(キャラクター)の話になると、すぐ人はメタ側の話ばかりしてしまうのですが、ベタの話を細かくやっていてメタな視点を持っていてもベタな気持ちに流されるところがこの小説の面白いところだと思います。

ところで、これはSF仕立てになっていても東浩紀私小説的な意味合いが強い作品です。主人公の葦船佳人と東浩紀のパーソナリティは大雑把に似ているでしょう。佐藤友哉の1000の小説とバックベアード*3私小説的なノリでしたが、三島由紀夫賞がこうした傾向の作品を高く評価するのは、少々窓口の狭さを感じなくもありませんでした。こうした作品がうけるためには作者自身が愛すべきキャラとしてある程度世間に受け入れなければなりませんし。

さて、そろそろまとめます。この小説は東浩紀がここ10年ぐらい関わってきたもののすべてが詰まった東浩紀でなければ書けない密度の小説です。SF的な設定も小説としての流れも出来がよく、一読の価値のある小説だと思いました。でも、もしかしたら、東浩紀の他の仕事をしらない方にはこの小説のディテールにこめられた一つ一つの背景をよく理解することができず、意味不明の小説と映るかも。そういう意味ではすべての人にオススメはできないかもしれません。