自由の存在を議論するより、自由の感覚を議論する

TRPGは自由なゲームであると言われ、そのことには賛否両論ある。僕もいろいろ小難しく考えてきた(自由という概念のやっかいさ - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む)。

この話につながる話としてちょっと迂遠であるが人間の自由意思について考えてみたい。

人間の自由意思について、脳科学は驚くべき発見をしてる。基本的には我々のするほどんどの行動は無意識が準備し、その後手を動かそうという意思が生じ、手が動いたという知覚が生じてから、実際に手を動かせと命令が行くらしい。

基本的に人間は「○○がしたい」というのわりとランダムに生じ、〇〇はしてはいけないというのは学習や訓練によって制御できる。人間が意識で制御できるのは、自分が何かをしようとしているのを知覚して、それをやめることだけらしい。

そもそも人間は自分の行動や思考すら完全に意思でコントロールできるわけでもないのに、意識にのぼった行動に対する自由の存在だけを特別視して議論するのは論としてあまり公正でないように思う。

自由というのは、あるないを議論するものではく、感じるか感じないかを議論するべきものだと考えたほうがすっきりする。

上で述べた通り脳は勝手に今の自分からみて整合性があるように過去の記憶を改竄してしまうことも踏まえると、過去の自分が他の何者かの意図によらず、自分の意図によって行動したことが最もらしい場合、自由だったという感じが生じるのではあるまいか。

よってちょっと変な話ではあるが、GMの誘導がうまくて、PLが自分で判断しているかのようにGMの話にのっていく場合や例えとれる選択肢が少なくとも自分が最もやりたいことができている場合にも自由を感じるのだろう。