真実をつむげる存在 〜コナンくんごめんね!〜

にゃあさんが、僕の至らぬ記事にトラックバックをくれたので、それのお返しの記事です。コメント欄に書く予定だったのが長くなりすぎたので記事にしました。

話の経緯は以下の記事を参考にしてください。

最初の記事は燃えやすい話題なのに神経が行き届いてないですね。いかんです。これには事情がありまして、実はlainの感想をほんとは15日に書くはずだったのに16日に書いてしまったという間違いから「15日も埋めなきゃ!」って思って疲れた頭でがんばって埋めたので、書く前にちょっと疲れてるんですねw。申し訳ないかぎり。

この現実認識の話は、先のにゃあさんの記事で見た”江川紹子TRPG者”と関連もあるのでちょっと補足をさせてもらいます。僕はこのまえニコニコを見たんですけど、思ったより悪い印象じゃなかったんですよね。

江川紹子のいう”現実”って言葉を”私の現実”あるいは、”私の経験から認識される世界観”って言葉に置き換えてほしいなぁって思ったくらいでした。そうしてくれると単に二つの文化の人が分かりあえなかったって話になるからです。

意図的に二つの現実感の差異を描き出そうとしているのかもしれませんが、江川紹子は自分の現実に固執して、TRPG者の現実を理解しようとしてないところに僕らは問題を感じてるわけです。取材する側がそんな態度でいいのかと。

それを踏まえて僕が最初の記事で言いたかったのは、意見の違いはそもそも現実認識の違いに寄っていて、それらの異なった現実を一つの真実の異なる側面としてとらえ、真実をさぐっていくというアプローチで見つかるほど真実は身近なところになく、二つの異なる現実からスタートして妥協点をさぐっていくというアプローチをとらざるを得ないのではないかということです。
むしろ、一つの真実があるという立場からは、つい自分の現実を真実だと誤解してしまいがちでそれを”弊害”だと書いたわけです。ただ、ここで気をつけなきゃいけないのは、そうは言っても自分の現実を軽んじてもおかしいわけで、人に聞いた現実をいきなり真実だと思い込むのは自分の現実を真実と取り違えるのよりさらに性質が悪いです。

GMとゴールデンルールのないゲームでどうやって意識のすり合わせをするのか”

TRPG者には以下のような例えが分かりやすいでしょうか。
GMとゴールデンルールのない世界でどうやって意識のすり合わせをするのか”
僕らはルールの分からないゲームをしているとしましょう。ある人はこれはソードワールドだというし、ある人はこれをアリアンロッドであると言う。それぐらいならまだましですが、”実はクトゥルフだったんですよ”なんてことになると大変です。SANチェックものですね。

それにゲームシステムに関してはなんとか一応の合意を得たとしても、実際の判定については物語至上主義なのかシミュレーション至上主義なのかによって、パーティの行動が一つにまとまらないわけです。

TRPG者はこんなときどうするのか?まぁ普通に考えれば一番まともそうな人をGMにして、裁定してもらいますよね。そうじゃないと遊びにならんわけです。自分の好き勝手な行動を律する存在を置くことで遊びになるっていうこういう概念はちょっとおもしろいかなぁと思います。

探偵の解釈を真実たらしめるもの

それで特にうらみもないのについ”弊害”とか書いてしまったコナンくんの新しい見かたについて述べましょう。まぁ別にコナンくんを悪者にする必要もないのに、弊害とか言い出してしまうのは僕の思慮不足なわけですよ。冗談だったのであんまり気をつけてなかったんですが、ネタとは言え確かにこれはいかんと反省して今回の記事を書いています。

なぜコナンくんのみつける真実が真実たりえるのか?それは、読者がコナンくんの行動を知っているからですよね。読者は探偵の行動と思考を全て知っていて、探偵が犯人ではないことを知っているからこそ、コナンくんの説明に納得がいくわけです。ここで探偵が読者の知らない怪しい行動をとっていると一気に信用度が落ちます。

信頼こそが真実をつくる

GMとコナンくんの共通点はどこにあるかというと”信用度”にあり、GMもコナンくんも人に信用されるだけの素養があるからこそ”真実”をつむぐことができるわけですね。

真実というものは基本的にはなく、あったととしても人にはたどり着けず、それでも求めるならば、人から信用を勝ち取って作るものなのではないでしょうか。子供たちにそこらへんを踏まえてほしいなぁなんて思う次第でした。