ロールプレイがなぜ生じるのか?

最近ggincさんの論考を何度も読んだせいで基礎的なことが気になってきた。以下ロールプレイがなぜ生じるのかについて徒然と考えてみる。だからとうしたいう記事だが、頭の中で考えただけのことは忘れてしまうのでメモ書きみたいなものだと考えて欲しい。

ロールプレイの有用性を評価した論考の中で、TRPG論考家が引用することが多いのは、以下のものだろうか。

この論考を簡単に要約するなら、ヒットポイントなど目に見えるパラメーターの損得だけで行動を決定するより、自分の操るキャラクターのスタイルなどを考慮し、そのキャラクターらしい行動を取らせたほうが、行動を決定するための情報が多様で悩みがいのある選択となるため、ゲームとして面白いというものだろう。

確かにこの指摘は納得できるものだが、この指摘では例えばビデオゲームドラゴンクエストで”なぜロールプレイが発生しないのか?”に答えてくれないように思う。ここでロールプレイが発生しないとは例えば、主人公が勇者という責任ある立場にもかかわらず、民家のタンスをあけたり、ツボをわったりして宝を漁ることを指している。こうしたゲームでは”その行為が勇者としてふさわしい行為か”という葛藤は存在しない。もう一つ例をあげるとマップ上ボス敵が見えたら引きかえしてセーブするのが当然の行為となっているが、目的がみえているのに引き返すのはキャラクターの感情を無視した行動であろう。

逆に、ウルティマのように例えば民家からものを盗むことに葛藤が生じるゲームもある。ウルティマでは悪いことをするとカルマというパラメータが下がり、不利益を被る。伝説のオウガバトルではカオスフレームと呼ばれるシステムがあり、英雄的な行動から外れた行為をすると民衆から支持が得られなくなる。こうしたゲームというのはいうなれば、”キャラクターがある基準に対して適切な行動を取っているか”を見えるパラメータにしたことにより、ゲーム中より深い戦術が必要になったいるとまとめることができる。

しかし、TRPGではキャラクターらしい行動をとるか取らないかで増減するパラメーター的なものは一般に存在しない(天羅シリーズやシルバーレインでは存在する)。それにも関わらずなぜTRPGではキャラクターらしい行動をとったほうが良いとされるのか。

僕は以下のように考える。TRPGではあるプレイヤーの行動の適正さを他の参加者が評価する機構が存在するため、ゲームシステムがパラメータをもって行動の適正さを評価しなくても、ロールプレイが発生すると。

この意味ではTRPGにおけるロールプレイの起源を考えるには、”他者の目を意識する”という要素が不可欠なのではないだろうか。

後日談

なんて偉そうに書いてはみたものの、元のロールプレイについての考察でも事あるごとに”参加者へきちんと説明する”ことを再三強調していることに気づきました。説明すべき参加者が存在しないドラゴンクエストではロールプレイが発生しないことも十分に視野に入っている論考でしたね。