”なりきり”はなりきることが楽しいの?

最近ggincさんのとこ中心にロールプレイや演技についての議論が盛り上がっています。僕は特に演技に関するところで素朴な疑問を抱いたのでちょっと別の視点を提案しようと思います。みなさんのと違って短いですよw

ここで言う“演技”とは、口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、というものです。
会話型RPGと演技に関するメモ:演技・immersion・LARP - God & Golem, Inc.

こういうわけで演技とはパフォーマンスであるという話が前提としてあるわけですが、後半ではなりきりという行為のキャラクターへの没入感、一体感のお話になっています。

僕の感覚ではパフォーマンスと言ったら観客なしには成り立たない行為で、自分を客観視しないパフォーマンスというのはあり得えません。もっと簡単に言うならばパフォーマンスは”人にウケる”ためにやるのであって、キャタクターに感情移入するためにやるのではないのではないでしょうか。バカバカしいおふざけであれ、カッコ良いセリフであれ、それがパフォーマンスであるならば自己顕示欲につながる外向きのものではあっても、自キャラに没入する内向的なものではないのでは。

キャラクターへの没入感を高めるためと、まわりからウケをとるため、なりきりというのは行為は一つでもその意図には二通りあり、その二つは方向性としては真逆なのではないかと考えます。

コミュニケーションの遊びなのにあんまり内没されると困るって事情から、なりきりを困った行為と捉えるむきがあるのは分かりますが、セッションで一番心に残ったのがあるパフォーマンスだったということもあると思うので、ポジティブな側面も併記して欲しいと思った次第です。

別に僕のTRPGのスタイルが演技満載っていうわけではなく、どっちかというと情報をまとめて淡々と話を進めるほうの人間なのですが、この手の話でこうしたパフォーマンスの不必要性を強調すると、印象としてロールプレイの正道と邪道の話になってしまうのです。正道と邪道の区別をしたいならそういう論調で良いのでしょうけど、その意図がないならもう少し配慮があっても良いのではないかと思います。