頭を使った物語の選び方

なんか最近紅茶さんが大澤真幸の本を読んで不可能性について考えているらしい。僕はその元となる本を読んでないのでいまいち文脈を把握してないかもしれないが、最近僕が考えていることともリンクしているので少々お返事めいたことを書いてみる。

まず基本的なこととして、人は自分が正しく正気であるということを自分で証明できない。ゲーデルの定理みたいだが、自分が狂気に陥っているにも関わらず正気だと勘違いしているのと、きちんとただしく正気なのかは自分では判別できない。正気や狂気の定義に問題があるかもしれないがひとまずこれは前提としよう。

自分が正しいことを証明できないとなると、何か他の絶対的に正しいものを求めてしまう。これが今問題にしているところの”不可能性”だ。神様とか”絶対的なもの”をイメージすると分かりやすいかもしれない。大澤真幸の主張(読んでないから分からないが。。。)ではリストカットとかで”自分が痛いと感じること”などの相当疑いようのない部分に落ち着きを求めてしまうということらしい。

深刻な話だと実感がつかめないかもしれないし*1、紅茶さんに合わせる意味でもノベルゲームの話にしてしまおう。ノベルゲームでも”真のルート”や”まとめルート”の存在を求める人は多いと思う(僕も多分にそう)。各ヒロインの話だけで終わってその後現れるルートがないと、どうも”まとまりにかける”という印象を持ったり、”結局どの話を自分にとってのほんとの話とするのか”みたいな疑問が生じてしまう。

しかしこれはこれで話が軽すぎる気がするのでもう少し実際上の問題になる話にすると、例えば表現の自由と広い意味でのセキュリティどちらをとるかというのも最終的には正しい答えはなく、どちらかを”選びとる”問題だと思う。人間にとって何が罪かというのは、根本的には哲学的な問題で、刑法の正しさも証明できるようなことではない。

タイトルで”物語”という言葉を使ったが、ここでは人が活動する動機という意味である。例えばあらゆる種類の児童ポルノを社会から排除しようとする人は、自分が弱いものを守る正義の味方であるという物語を生きていて、一方創作物の規制に反対する人々はマイノリティや多様な価値観を守る正義の味方であるという物語を生きている。


さて、そういった込み入った現状を踏まえても、実は僕は非常に楽観的なことを考えている。

昔、父親に以下のような質問されたことがある。「お前は地球が丸いことを見たこともないのに信じているのはなぜか」と。

幼い僕には難しい質問だったが今ならこう答える。「地球が丸いと考えたほうが矛盾がないから」と。
僕は自分の経験としては水平線をみたことがあるし(地球が丸い証拠)、その他、僕が知っている科学的な知識は地球が丸いことを支持している。

あたりまえかもしれないが、物事を多角的に見て矛盾がなさそうなほうを信じるしかないのではなかろうか。多角的にみるためには情報がいっぱい必要だし、あまり情報を持ってないことについてはとりあえず真偽の判断は保留する。

このことは科学的じゃないことについてもいえると思う。リストカットのときに感じる痛みやなんとなく感じている孤独感などを絶対視しすぎてはいけない。あなたに本当に友達はいないのか、誰も味方はいないのか、冷静に考えてみたり情報を集めてみたらきっとそうじゃないことがわかる。ネットにはきっと同じ悩みを持つ人がいっぱいいるw。

自分がどの物語を生きるのか、それは集める情報の増加とともに変化、構築しなおされるもの。それで良いのではなかろうか(こういう価値観で納得する物語を僕は生きているのですがw)。 あらゆる分野のあらゆる情報を集めることはできないけれども、自分の身体感覚を含め、一面的な情報に踊らされてはいけないと思う。

*1:あとで読み返してみると、このパラグラフは読み手がシナリオに求める一般的なことと、不可能性を求める時代性から生じるものの区別がついてなくてよくないなぁ。