TRPGにおける不能性の取り扱い〜セカイ系の視点から〜
最近TRPGにおける感動に関していくつかの論考が書かれています*1。これは今まであまり話あわれていなかった話題だと思うので、みなさんの意見を楽しく拝読しました。途中から玄兎さんが悲劇とPCの能力の話をし始めたのですが、実は偶然にも社会は存在しないという論文集を読んでいて同じようなことを考えていたので特に面白かったです。みなさんの意見と同じところも違うところもありますが、僕は僕で一つ考えてみたいと思います。
3タイプのストーリー展開
最近、社会は存在しない――セカイ系文化論*2を読んでいます*3。そこに収録された論文の中では比較的簡単に読める長谷川壌の「セカイ系ライトノベルにおける恋愛構造論」はイリヤの空、UFOの夏から灼眼のシャナ、さらにはとらドラ!あたりまでの恋愛構造を包括的に議論したもので、創作にも生かせるようなアイデアがつまっていました。
セカイ系の物語ではよく世界の危機に立ち向かう恋愛関係にある二人が描かれますが、セカイ系に限らずとも主人公とヒロインのうち誰が立ち向かうのかによって、以下のような3タイプのストーリー展開が考えられます。
- 主人公が戦いヒロインを守る
- ヒロインが戦い主人公を守る
- 主人公もヒロインも戦う
まず、最初のタイプの物語は古くから数あるオーソドックスな英雄譚ですね。それに対して二番目のヒロインが戦い、主人公や世界を守るというのがセカイ系でもっともよく見られる展開です。イリヤもシャナもそうですね。一般に戦闘美少女ものはこういった構造でしょう。3番目の共闘するケースの代表例はエヴァンゲリオンです。
今回のテーマである悲劇と感動をを取り扱うには、二番目のヒロインが戦い主人公を守るタイプのお話を例に、その”ヒロインは戦っているのに俺は無事を祈るこことしかできない”という不能性を軸に考えていくとわかりやすいと思います*4 *5 *6。
不能性と感動
感動にもいろいろありますが、ここでは”かわいそう”という感情を取り扱います。”泣ける話”とか、”全米が涙した”とかいう文句がCMに踊ることから考えても、感動の中でもわかりやすくメジャーなものです。例としてはフランダースの犬でネロとパトラッシュが冷たくなっていくのがまさにかわいそうの極みとしてあげられます。
そんなかわいそうな話が成立するためには、自分で回避できないし、周りの人も手助けできないという構造が必要です。逆に考えてみましょう、自分の力や周囲の人の助けで助かってしまう話はかわいそうな話になるでしょうか。困難が解決されてしまっては悲劇が成立しません。
最終兵器彼女やほしのこえやイリヤなど、ヒロインが戦い主人公を守るタイプのお話では、主人公が無力であるという設定が感動する要素として非常に重要な役割を果たしています。戦闘で傷つく彼女を助けたいのに自分は無力でヒロインの無事を祈るぐらいしかできない、ヒロインを強引に戦闘から引き離すような力もない、この悲劇が成立するためには主人公が有能であってはまずいのです。
もう一つ泣ける要素として”自己犠牲”というのもあるのですが、”ヒロインが戦い主人公を守る”タイプの話ではヒロインが主人公や世界のために犠牲になるという構図となっており、二重に泣ける話になっていうことにご注意ください。
さて、こうした”無力感”・”不能性”を効果的に使ったシナリオと称されるのが、泣きゲーというジャンルを築きあげたkeyの名作、Airです。この手の話ではよく例に挙げられるのでご存知の方も多いと思いますが、本作品の後半にてプレイヤーはとある病で弱っていく少女を無力なカラスとしてただ見ているしかありません。ここではノベルゲームとして選択肢を握ってきたプレイヤーがただの観客のように悲劇をみているしかない存在になっています。
この節をまとめますと、人が”かわいそう”という感情を抱くためには、”その悲劇を止められない”、プレイヤーや観客を不能にする構造が必要で、それをうまく制御することが感動する話を作るコツだということです。
TRPGと感動話の相性の悪さ
さて、ここまで読まれた方は予感しているかもしれませんが(あるいは最初から分かっていたことかもしれませんが)、感動する話はなかなかにTRPGと相性が悪いです。TRPGのキャラクターというのは問題解決の能力を与えられているので、解決できない問題とか選択権の剥奪という”不能性”をTRPGの枠組みに単純に収めることはできません。
TRPGで泣ける話を作る前に、こうした構造的な困難を把握する必要があります。
ゲームシステムの中にこうした不可能性を織り込んだ例は番長学園の目標値が無限大で絶対失敗とかがありますが、あまり一般的ではないですね。この不能性という課題に真正面から向かい合ったリプレイもありますが*7、なかなか真似できないアクロバティックなシナリオとなっています。
余談:日常観察系アニメのTRPG化の難しさ
余談になりますが、最近わりと人気なジャンルとなっている変わった少女達の日常観察系アニメも上記したのと同じ理由でTRPGの枠に収めるのが難しくなります。日常観察系アニメとはここであずまんが大王、ぱにぽに、ひだまりスケッチ、GA、けいおんなんかをさしていると思ってください。
こういうアニメはパッシブに少女達の日常を眺めて楽しむのが流儀ですから、少女達がなんらかなの課題を抱えていたとしても、”この場面は俺だったらああするなっ!”とかいうアクティブな欲望が湧いてこないと思われます。泣ける話と同様、読者・視聴者が舞台で当事者をやるよりも観客的ななスタンスをとっていることに注意してください。
とはいえTRPGも懐の深い遊びですから、こうしたものをゲーム化できる可能性も秘めています。CLAMP学園やマジシャンズアカデミーは行動選択そのものよりも行動の結果起きるドタバタをメインに楽しむことができるシステムです。こうしたシステムを真似るとうまくゲーム化できる可能性もあります。課題解決をゲームの中心からずらすといろいろ可能性が見えてきますね。
ところで余談の余談となりますが、涼宮ハルヒの第二期のアニメに関して一言。涼宮ハルヒの第二期ではエンドレスエイトと銘打たれた一つのストーリーが同じ内容で演出を変えて何度も何度も何度も繰り返し放映されています。このエンドレスエイトのループを終わらせるためにはハルヒが感じている夏休みの心残りをキョンが解決する必要があるのですが、なんどやってもキョンがへたれて話が進みません。視聴者の方はきっと”おれがキョンだったらもうハルヒに告るよ、終わらせるにはそれしかねー”とか思っているかたも多いと思います。僕もその一人です。話がすすまなくてあまりにじれったいため、ほんとお話に介入したい気持ちになりましたねw。
TRPGで不能性を取り扱うには
感動する話を作るためには、問題解決のために作られたPCを不能な状態にしなければならず、そこには構造的な問題があるわけですが、この節ではそれをどう乗り越えるかに話を移します。
問題解決/演出
現状、もっとも良く使われているのは”演出として済ます”という方法でしょう。キャラクターの問題解決能力は置いておいて、物語上の要請である悲劇を描いてしまうことにしまう方法です。GMは演出で済ませたいのにPLはPCの問題解決能力を使いたい場合など意思の齟齬が発生するとあまり良くないので気をつけてください。
PCたちの能力を一時的に奪う
PCを不能にする方法として一番ストレートフォワードなのは、設定や状況によりPCを無力化することでしょう。
君主の処刑を牢から眺める騎士とかドラマチックな感じです。ここでは牢をつかって騎士を無力化しています。
少し特殊といえば特殊ですが、無力な一般人が能力者へ変わるところをセッションで行うという手もあります。ダブルクロスのリプレイでそういう話がありますね。ダブルクロスの場合、オーヴァードになるということが毎日続くと思っていた平穏な日常の終了なので、このあたりをもう少し悲劇的に取り扱っても良いような気がします。灼眼のシャナのおいての坂井悠二のように自由に動けはするが実際には死んでいていろんなものを失っているというのもちょっと工夫するとうまく使えるかもしれませんね。
ところで、ここで気をつけて欲しいのは、一般人から能力者に目覚めるストーリー展開にすると前にした3分類では主人公もヒロインも戦うパターンになってしまうことに注意してください。セカイ系でよくみられるような主人公が純然たる意味で無力な話というのはやはりTRPGではやりにくいですね。
PCの解決能力と違う方向性の問題にする
いろんなTRPGを無視してるような気もしますが、PCたちは戦闘能力を持っていることが多いですね。戦闘能力で解決できない悲劇を与えればその問題に対してはPCを不能にすることができます。
簡単な例では、信念に従い説得に応じないとか、そういうのは悲劇になりやすいかと。
まとめ
この論考ではTRPGにおいて、感動する話を作るにはどうすればいいのかという問題を考えました。感動する話では悲劇へと向かわせるために、その当事者をある意味不能にする必要がありますが、問題解決能力あふれる人物を操る場合には困難が生じることを指摘し、その技術的な回避法をいくつか述べました。
最後に玄兎さんや紙魚砂さんとのスタンスの違いを述べたいと思います。
- http://blog.talerpg.net/rpg/archives/1606
- 表現者の逆転について:(・_・) : 紙魚砂日記
- http://blog.talerpg.net/rpg/archives/1608
これらに書かれていることと、僕が言っていることは大まかには一致していますが、逆のことを言っているように見える部分もあります。たぶんそれは、紙魚砂さんが自分の経験上TRPGで発生した感動について語っているのに対し、僕はセカイ系でよく用いられる不能性による感動をTRPGに持ち込もうとしていることに起因していたり、また玄兎さんが”TRPGとはこういうものだ”というポリシーから話を進めているのに対し、僕は”TRPGっていうのはそういうものだろうけど、技術的にうまいことすれば、ポリシーに反する要素も取り込めるかも”というスタンスをとっていることから生じているんだと思います。
だらだらとした長文にお付き合い頂き感謝します。今日はこのあたりで止めておきますね。
*1:セッションでの感動 - きまぐれTRPGニュース - trpgnewsグループ
*2:
*3:僕はこの本のサブタイトルのほうをすっかり見落としていまして、おもしろそうな本だけど僕が読むには難しい本に違いないと思ってスルーしていました。最近何度かみる機会があって、「ああセカイ系の話ね」と興味をもちまして購入した次第です。たぶん三十路前の僕あたりの世代がもっともセカイ系に感受性があるんだと思います。まだ全然読んでいませんが、 笠井潔が面白いことを言っていますし、買ってよかったです。
*4:ところで、ちょっと気をつけて欲しいのは、セカイ系の不能性と感動に着目するのは”社会は存在しない”の論調ではなく、むしろ動物化するポストモダン2とかゼロ年代の想像力の論調に近いです。不能性が気持ち良い→不能になることを自ら選択する→引きこもりというロジックです。社会は存在しないの論調では不本意にも不能であるとか、不能であることしか選べないというそういった立場で書かれている論文が多いように思いました。以上、社会は存在しないの内容そのものに興味を持つ方への注です。お気をつけ下さい。
*5:PCの死の一回性(動物化するポストモダン2を読んで) - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
*6:ゼロ年代の想像力 宇野常寛 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
*7: ローズトゥロード リプレイ ソングシーカー (Role&Roll Books)