創作における作為と非作為

年末なのでいろいろまとめて、来年にネタを引きずらないようにしたいのですが、なかなか考えがまとまらなかったりして中途半端な記事を書き連ねることになりそうです。

ハンドアウト論から派生して、創作の立場からTRPGに興味を持った方がいらっしゃいましたし、僕がたまに悩んでいる作為と非作為のバランスについて一度書いておこうかと思います*1

物語に対する二つの立場

TRPGに関わる立場として、以下のように二つの立場があることが指摘されています *2

  1. 物語を作りたくてゲームをする、ゲームを利用して物語を作る
  2. とにかくゲームをして、その結果物語ができることもある

ゲーム部分を重要視するか否かが二つの立場を分けているという考え方もあるかと思いますが、僕は2の立場の方が考える良い物語の条件に、”作為がなく自然に生じる”という条項が入っていて、作為のこもった物語をあまり良い物語ではないと考えているため、前者の立場に対して否定的になってしまうのではないかと推測します。僕もそのように考えてきたからです。

作為のある物語の見直し

僕が”ゲームの結果、物語が生じる”という自分の考えに疑問を持ったのは、「ゲームシナリオライターの仕事 名作RPGに学ぶシナリオ創作術」(前田圭士著)*3を読んだときです。
この中で重馬敬氏が、キャラクターの心情表現には”段取り”が重要だということを述べています。例えばクライマックス付近で主人公の行動原理ががらりと変わる場合(よくありますねw)、最初のほうは変わる前の様子を印象的に描かなくてはなりませんし、行動原理が変わるきっかけが必要ですし、変わった後は、どこが変わったのがきちんと表現しなければいけません。

物語や心情の変化を伝えるためには、丁寧に演出しなければ分かってもらえないのではないかと思うのです。ちょっと強調して言うなら作為なくして、人が共感できる物語はできないということです。

作為と非作為のバランス

とはいえ、僕も2の立場から1の立場へあっさり鞍替えするわけではありません。例えば、「ローズトゥロード リプレイ ソングシーカー」(小林正親著)*4はGMの繰り出すに困難にPLが本気で抵抗する様が感動的です。こういうのをみると、やっぱり2の立場も良いなぁと思います。

たぶん、2の立場が良い話になるのは、PCが信念をつらぬき通すタイプのお話です。このときGMが設定する困難が大きければ大きいほど良い話になります。
一方、PCが途中で信念を変更する、より大事なものに気づくというタイプの話にしたい場合は、変化の前後をうまく表現したりやきっかけを作為的にもうける必要があるのでしょう。

PCとPLを分離する楽しさ、PC=PLの楽しさ、これらをうまく両立させるにはどうすればいいのか。最近の議論では演劇者の立場から発言するウチガネさんの論がおもしろいです*5。これからも考えていきたいと思います。