思っている遊び方とルールが離れてしまったとき 〜特にソードワールドにてフリーセッションする場合気をつけること〜


論考でしかも長いので、御託はいから具体的は話が読みたい方は最後のほう(遊び方とルール さまざまな実例)から読むことをオススメします。

ポリシーとメカニズム

TRPG論考とか読んでいまして*1 *2、ポリシーとメカニズム論っていうのを見つけました。
こう新しい言葉を使うと身構えてしまう人がいるかもしれませんが、その意味するところははっきりしています。

ポリシー どういう風に遊びたいのか
カニズム どういうルールなのか

基本的にはこれだけのことです。どういう風に遊びたいのかと、どういうルールなのかは遊び方のはっきりしたルールのときにはあまり意識しないで済むと思います。でも、例えばソードワールドみたいに、かなり幅広い遊ばれ方をするゲームの場合は、参加者がここに意識的にならないといけないと思います。理由は本論になりますので、後で述べます。

ソードワールドとフリーセッション 白銀さんとの考え方の違い

特に、今回僕はオンラインセッションにてよくとられるフリーセッション制、というPCを先に作っておいて、GMの募集にあわせてPLが参加PCを決める形式において、遊び方とルールは離れていませんか?と疑問を呈することにします。

実はこのお題、僕がその手法をこっそり教えてほしい、送り狼さん…じゃなくて紳士で博識なところを尊敬してやまない白銀の狼さんにネタを振りまして、お忙しいところ2回もかけて書いていただきました。

白銀さんもかなり忙しそうなところを書いていただいていますので、僕も忙しいとか言ってないで書かなきゃなぁと思ってこの記事を書いています。

長文になりそうなので読むのが面倒な方も多いでしょう。先に白銀さんとの考えの違いをまとめておきます。
白銀さんはわりとルールを重視して、そのルールにあった遊びかたをしましょうという方向性なのに対して、僕はまず、こういう遊び方がしたい、だからこのルールを足してこのルールをはずしましょうなどと、ルールや運用を変更する方向を志向しているということです。そこに留意していただくと、これからの本文が読みやすくなると思います。
ポリシーとメカニズムという言葉で言うと、白銀さんはメカニズムからそれにあったいいポリシーを探ろうとしているのに対し、僕はポリシーが先にきて、メカニズムを調整しようという立場をとっています。

ポリシーとメカニズムを意識することの重要性

カニズムの志向性がはっきりしている場合

たとえばダブルクロスなんて遊ぶときには、ロイスを重視し、ロイスをうまく残したり使ったりすることで人間関係の変化や守るべきものを表現するってところからそうはぶれませんよね。

カニズムの志向性がはっきりしてない場合

たとえば、ほんわりのんびりプレイもシビアな殺伐プレイもできるようなルールの場合は、どっちの方向か決めておいたり、周りの空気の読んだりしてあわせる必要があるでしょう*3。あわせないプレイもなしではないと思いますが、それで誰も不満に思わず終わらせるにはより高度な技術がいると思います。

先ほど、”ほんわりのんびりプレイもシビアな殺伐プレイもできるようなルール”といいましたが、ルールも一つの条項だけあるわけではなく、複数の条項から出来ています。その中にほんわりのんびりプレイがうまく表現できる部分もあれば、シビアな殺伐プレイを表現できるような部分もあります。
ほんわかのんびりプレイをしたいのに、シビアな殺伐プレイをするための部分に拘りすぎるのは、積極的に物事をつまらなくしているのではないでしょうか。

選択ルールと明確に銘打ってあるものもありますが、僕がここで主張したいのは、ルールの条項の軽重などを意識して、自分や場のポリシーにあったものを重くとりあげ、あわないものは運用であまり重要な結果をもたらさないようにするなどの工夫をしていったほうがよいのではということです。

フリーセッション制という大きな縛り

先ほど、ルールの条項の軽重といいましたが、絶対変えられない部分と、変えてもゲームが成立するものあります。

それで、まず変えられない部分なのが”セッション形式”なのではないでしょうか。
オンラインかオフラインかとかは、集まる人の都合なので非常に変えにくい部分です。
また、コンベンションなのか、気の知れた人とのカジュアルプレイなのか、こういったゲームプレイ以外の部分こそ、容易には形式を変えることができません。

TRPGのルルブは普通”コンベンション又はカジュアルプレイでオフラインで遊ぶこと”を意図して作ってあると思います。オンラインで”フリーセッション制”で遊ぶ場合、ルールブックの適用を変更することが必要なのはある意味当然ではないでしょうか。元のルールはオンラインでこのように遊ばれるように調整されてないのですから。

もちろんルルブの原文を大事にするのは当然のことです。全員が同じルルブで遊んでいてそういう共通認識で遊んでいるので、いきなり自分解釈なオリジナルルールを持ち出されても混乱してしまいます。しかし、ルールが想定している遊び方と自分が遊びたい方向性があきらかに乖離している場合、確信と信念を持ってルールの条項を変更するべきだ、と僕は思っています。

具体的な話 フリーセッションにおけるお金と経験値

今までのは一般論です。ここから先は少し具体的な話をしてみようと思います。ここからはじめられるのなら楽なのですが、どういう前提でこの話を始めるのかわからないとやはりちんぷんかんぷんだろうと思って長々と前提を書いてきました。

フリーセッションでは経験値、お金、マジックアイテムや追加魔法の入手に対して大きな制限があります。TRPG遊戯会ではこれらの報告義務があります。これは同じだけ冒険をしたものは大体同じ強さになるべしというポリシーを実現するためのメカニズムです。たしかに、これはサイト運営にとって大事なことで、フリーセッション制である以上、ここを外すわけにはいかないでしょう。

報酬や経験点は冒険に必要なだけ調整して出すという認識が今までのTRPGにはあるのではないでしょうか。フリーセッション制で報酬や経験値に制限があるっていうのは、実はMMOに近い状況でTRPGの運用のされ方としては新しく、積極的にノウハウを蓄積しなくていけない領域ではないかと思います*4

お金や経験値を基準にそった値で出したとき、一番きついのは死んだ場合の蘇生だと思います。ルルブの基準だと最低8100ガメルとなるでしょうか。条件が整わないともっと大量にかかり何万ガメルに達することも簡単です。一回500ガメルずつ儲かったとして18回の冒険が必要で、これは週末毎回遊んだとして4ヶ月半ほど必要です。

僕はソードワールドってリプレイなんかを見てましても、けっこう簡単に生き返る遊び方がされていると思うんですよね。防御ファンブルなんかの運によってよく死に、ちょっとたいへんな思いをするけど生き返る。または、同じぐらいの強さのPCを作ってすぐ冒険に復活する。ソードワールドの死に安さっていうのはそういう遊び方に支えられていて、抱えきれないほどの借金を背負ってむちゃくちゃ苦労するっていう方向性はそれが楽しい人がするのは止めはしませんけど、はたしてみんなが楽しく遊べる方向性なのかどうか疑問だと思います。

遊び方とルール さまざまな実例

フリーセッション制で遊ぶってことは動かせないとして、その上でどうルールを運用していくのか。
場合によってはルールの変更も辞さないという立場から、以下にいくつかの立場での典型的な運用について述べてみたいと思います。

ガチ戦闘

戦闘がメインのシナリオです。実力のある相手と真正面からぶつかる場合を想定しています。

ガチ戦闘がしたい場合。これで死の恐怖がないというのは逆に醒めるものがあります。
一歩間違えれば死。ダイス目によっても死。このスリルが味わいたいからこういう遊び方をするのでしょう。生き返るのが大変なほど生きて帰れた喜びが増すという理屈が成り立ちます。

こういう場合は、死んで苦労するのも致し方なしといえます。ルルブにしたがって処理すればよいと思います。防御ファンブルも存分にとればよいと思います。

ただ戦闘だけをする場合、誤射のルールがありますと、後衛(特にレンジャー)の行動はかなり制限されます。
ほとんど戦闘しかないセッションで誤射のルールを取るならば、後衛はストレスを感じると思います。あまりオススメできません。"誤射のスリルが楽しみたいぜ"って場合にはとるとよいと思いますが、こういうのもわりと簡単に生き返る前提での話だと思えますね。

さらなるダイスのスリルを前面に押し出すなら、生死判定および、リザレクションの判定もガチでダイスをふればよいのではないでしょうか。

ただし、十数回も遊んだPCがダイス目によって一瞬にしてロストするこのような遊び方ばかりを好む人はそんなに多くないのではないかと。

生き残るという喜びは減るかもしれませんが、PCの全力が見てみたいとかそういうことならば、競技みたいな形にして死なないようにするのも一つの手です。

工夫戦闘

ソードワールドは戦闘以外にも使える魔法も多いですし、変わった効果の呪歌なども豊富にあります。
よって、戦闘する前にかなり有利な状況を作って戦闘する前にほぼ勝敗を決定したり、戦闘を避けたり、工夫して戦闘したりしなかったりする遊び方が考えられます。
こういう遊び方はソードワールドでこそやりやすいと思います。個人的にはこの遊び方が好きです。
しかし一方この遊び方は(PCでなく)PLの能力によって活躍度が左右される他、戦闘をする際にもモンスターを用意するだけでなく、周囲の状況を用意したりその場ででっちあげたりと、マスタリングにも少々難しさがあります。
いい手が思いつかないときにはセッションが長引きやすく、オンライン向けとはいえないかもしれません。

さて、この場合、戦闘以外の手段が十分取れるにも関わらず戦闘をしたということなので、戦闘をして死ぬリスクというのも承知のことかと思います。この場合もルルブ通りに処理すればよいのではないでしょうか。
気をつけて欲しいのは上のガチ戦闘や、下のお気楽戦闘では戦闘を前提としてシナリオがくまれていることがあり、戦闘を避ける手がないときがあります(戦闘をさけることが限りなく任務失敗になる)。戦闘を避けられないシナリオで依頼を受けたときには死を覚悟しろっていうのも少し理不尽なような気がします。

この工夫戦闘の場合、後衛(特にレンジャー)の活躍は戦闘だけに限りません。レンジャーも十分に自分の技能を生かすチャンスがあったことでしょう。この場合誤射のルールをとらないことは逆にファイターの活躍の機会を奪うと思います。ファイターは基本的には戦闘しか見せ場がないのですから。誤射のルールはとるべきなのではないでしょうか。

お気楽戦闘

お使いみたいなモンスター退治シナリオを想定しています。
僕はオンラインで短時間セッションをするとなると、短時間でそれなりに盛り上がる、こういうシナリオが多くなるのは必然だと思うのですがいかがでしょう。

この場合、戦闘はPC全員で参加できるという意味である種の連帯感を高める共同作業としての意味合いが強いと思います。
お使いシナリオは敵が強かったりする必要は実はあまりなく、みんなで協力して倒したという事実さえあればよさそうです。

PCが共同作業をするということをメインにしていますので、誤射をとり、共同作業に参加できないPCがでるのは好ましくないと思います。誤射をとるべきではないかと。

防御ファンブルは危ないのでやめてもいいと思いますし、生死判定は戦闘不能判定でいいと思います。おつかいシナリオで死んでどうする。微妙な空気が流れるだけではないでしょうか。シナリオ傾向がお気楽なのに、死亡のルールだけはきついとか、そういうのはアンバランスだと思います。死んでもすぐ生き返ったり、別のPCを用意するような環境では別ですが、フリーセッション制の中で、死亡っていうのはけっこう大変なわけで、セッション傾向がお気楽ならそれに見合った判定をするべきだと思います。

まとめ

セッション傾向によってルールの条項を変えたり、運用を変えたりするのは当然のことだし、恥ずかしがらず、信念と確信をもって行ったらよいのではという提言でした。

条項や運用を変えるといっても動かせない部分と動かせる部分の区別をしっかりする必要があって、フリーセッション制からくるお金や経験値の制限は動かしがたく、実はルルブに書かれていることのほうが動かしやすいのではないかと指摘しました。

*1:特にggincさんのところとか

*2:元のVampireSさんのポリシーメカニズム論はこちら

*3:そういえばhttp://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.htmlには共通認識という言葉自体はでてきますが、詳しい説明はないですね。かなり重要な概念なので加えたほうがいいかもしれません。

*4:MMOに感覚が近いアリアンロッドなんかではけっこう明確な基準がありますね。