なりきりのモダンとポストモダン

さて、上で本谷有希子の話をしまして、ちょっと演劇に触れたので、せっかくなのでTRPGにおける演劇的要素の話でもしましょうか。ちなみにモダンとポストモダンとか言い出したのは、そういったほうが興味を持ってくれるかなぁと思っただけで、要するにモダン=頭、ポストモダン=身体という対比で、なりきりの問題を<頭>対<身体>の対立構造で理解し、その対立をどうやって解消していくかのかというのが本論です*1

馬場理論とその反論

TRPGを即興演劇的とか人に説明する人もいると思いますが、僕がここに興味をもったのはもともとは馬場理論への反論としてです。

行き過ぎたキャラクタープレイは、TPPGのゲーム性(意志決定)を台無しにして、それを「低劣なごっこ遊び」としてしまう。世間に広まっている誤解や偏見は、このようにして生じた「低劣なごっこ遊び」に対するものなのだから、このような(誤っている上に、誤解や偏見のもとにもなる)プレイスタイルを撲滅すべく、我々はキャラクタープレイを必要最小限(ゲーム性を損なわない範囲)にとどめておくべきだ。

このような意見を、キャラクタープレイに対する「批判」と呼ぶことにしよう。(ちなみに、私自身も何度か「批判」を表明している)
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000523.htmlから引用

意図的に激しい部分を抜いてきました。http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000523.htmlの全体の論調は、引用してきた部分よりずいぶん穏やかなものです。でもまぁいろいろ他にも書いてますので、全体的にキャラクタープレイっていうものに関しては否定的ですねw*2

これに対して、キャラクタープレイとか、なりきり要素っていうのも上達要素があって深いものだよって反論があります。良い物語をつくるという意味で重要だというご意見もあります。僕もちょっと昔に調べましたね。

身体論

上記のようにキャラクタープレイの擁護に演劇的技術向上を持ってくるのはわかるものの、今までの論考はキャラクタープレイの<頭>の側面にばっかり着目してないかと常々疑問に思っていました。疑問に思うきっかけは、演劇関係の本を本屋で眺めてみると、演劇論ってけっこう身体論だったことです。表現する体をどう作るのか、みたいな話が多そうですね。結局”キャラクタープレイを擁護する”っていってもなんか脚本家的な立場からなされていて、演者としての立場から論がなされてないかなぁって印象があります。

僕もこんな誰もよまない論考なんて良く書いていまして、<頭>重視のタイプなので、<身体>的な遊び方を苦手にしています。この苦手意識を克服するための技術について、触れられている論考は実は少ないのではないでしょうか。特に僕はチャットセッションばっかりやってるからなぁ。

Aマホが突破口?

ここの上の34分ごろから頭の演技と身体の演技の違いの話がでてきます。頭で考えながら身体を動かす、身体を動かしながら考える。これをどうやっていくのかこそが、キャラクタープレイ論の次の方向性なのではないでしょうかね。

まぁこのラジオで言われている方向性も、身体が動いてしまうタイプの演者がどう頭を働かせるのかという練習としてTRPGを使っているという感じがしてしまいます。要するに<身体>論は結局反復練習になっちゃうから技術論が書きにくいのかなぁ。まぁ今のところ僕が思うのは以下のような練習ですかね。

  1. 形から入る 語尾だったり
  2. PCの感情にあわせて声の調子を変えてみる
  3. 身振り手振りを加えてみる

頭形から身体形の役者を作るための一つの方向としてAマホが提案されているのはおもしろいですね。身体形の演技を作るのしても、頭形の人にいきなり考える時間を与えず演技させるエチュードは効果がないって言ってます。

ここでは触れられていませんが、シーン制のTRPGでシーン定義を行うのも頭形と身体形の折衷の訓練にいいと個人的に思います。

*1:国家の品格(藤原正彦)の感想のモダンとポストモダンの対比の構図を参照のこと。もともとこういう図式的な理解は、頭の整理がヘタな人、うまい人(樋口裕一)の分類による。

*2:http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20020114.html