リセットによる結末の断絶を物語の一回性に回収するメカニズム

さてさてほっとくと毎日リトバス日記を書いてしまいそうなのでたまには違う話題を。
僕はまた、SFマガジンを買わずにゼロ年代の想像力を論じるという恥知らずなことを繰り返そうかと思います。


とりあえずまとめサイト様を読んで状況を確認してみます。

決断主義」的なふるまいを止めるにはどうすればいいのか。これが宇野が掲げる向こう10年の新しいムーブメントの形であり課題である。そして宇野は、そのカギとして「リセットできない現実」というものを挙げている。
http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070726/1185428452から引用。

おおっ東浩紀の”ゲーム的リアリズム・メタリアルフィクション”に対して”リセットできない現実”を対置するのか。これは熱いですね。そんな熱い議論が交わされる中、僕が簡単に指摘したいのは”小さな成熟”のためのゲーム的リアリズムです。

小さな成熟っていうのは以下のようなものです。

社会全体を覆う大きな物語が書けなくなったからこそ、小さな人間関係から出発して少しでも大きな認識に到達しようという、身の丈にあった成熟の物語
http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_406f.htmlから引用

さて、この小さな成熟を絵空事でなくするためには、ある種のリアリティというか切実さが必要です。道徳の教科書に説得力がないのは、それらがないからではないですか?僕の指摘はここの説得力を出すためにこそ、メタリアルフィクションが必要であるというものです。


引用ばっかでもうしわけないのですが、アイデアが思いついた元は引用しておくのが礼儀です。ggincこと、高橋志臣さんの文章を引用します。

東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で取り上げている『ひぐらしのなく頃に』シリーズは、ゲーム構造として〈セカイ系〉の特徴を持っているが、その解決方法についての初期の思考はまったく〈決断主義〉的である。しかも『ひぐらし』は、シリーズ後半において、その〈決断主義〉をより高次な点から批判するものとして〈共同体主義〉を提出してしまっている。いささかファンタジックな過程ではあるが、基本的にはそこに「小さな成熟」があると見てもさしつかえのないものだ。
God & Golem, Inc.の脚注から引用

ここで言われているファンタジックな過程とは、リセットによる結末の断絶を物語の一回性に回収するメカニズムなのですけども、ネタバレに配慮して、販売形式だけで言えることだけ簡単に述べましょう。”ひぐらしのなく頃に”は、救いのない惨劇のお話ですが、”ひぐらしのなく頃に解”はほぼ同じ状況設定から始まる救いのある物語です。プレイヤーはきつい惨劇をみることで、今度こそ切実にこの登場人物を救いたいと願います。さらに、ひぐらしのなく頃に解では主人公が変わるところも大事で、プレイヤーは複数人の視点から世界を眺めることができます。これはキャラクターの信用につながっていきます。

複数視点で同じ世界観の違う物語…要するに1回限りでない物語の”もしも”をみる、”ゲーム的リアリズムの形式”こそが、小さな成熟を助けるのではないしょうか*1

*1:まぁしかしリセットっていう言葉を持ち出した時点で、このぐらいの考えには至っていそうなので、じゃあリセットなしで宇野常寛がどう小さな成熟にたどりついてくれるのかが楽しみです。群像劇を持ち出すのかな。