人身御供論 内容要約1
ちょっと自分の理解のために内容を要約してみせます。本文のままではなく、僕の理解が多分に混じっているため、正確なところを知りたいかたは本書を読んでください。
猿はなぜ殺されるのか?
まず、猿聟入(さるのむこいり)という話を紹介して、そこから生じる疑問から本書は始まります。
猿聟入はこんな話です。
- 百姓の爺さんが日照り続きにこまり、田に水を与えてくれたら娘を一人やるのにとつぶやく
- 猿がでてきて田に水をやる
- 見返りに三女をもらっていく
- 猿と娘は幸せに暮らす
- 一年後、猿と娘が爺さんに合いにいく際、お土産として餅を持っていこうとするが、娘は臼のままもって行って欲しいという
- 猿は川の側の花も土産にしようとして取りに行くが、臼が重く、誤まって沢に転落して命を落とす。
- 娘は山中をさまよい老婆に出会う。しばし老婆の家で過ごし、姥皮(かぶると老婆の姿になる)をもらう
- (自分の村ではない)里に下り、長者の家に仕えるが、長者の息子に姥皮をとったところを見初められ婚姻する
こういった話なんですが、猿と娘は幸せに暮らしていたにも関わらず、なぜ猿は死ななければならないのでしょう?
ところで、この話は通過儀礼的*1な話に特有な以下の構造を持っています。
1 今まで帰属してきた社会からの<<分離>>
2 非日常的な空間を象徴的に生きる<<移行>>
3 再び社会に<<再統合>>する。このとき1で帰属して社会的役割とは違う役割をえる
このように猿聟入を通過儀礼の話と見たとき、なぜ猿が死ななければならないのか?これが本書の前半を通じて議論させる問いです。
そういえば、西洋的な勇者、姫、ドラゴンの話でもドラゴンが姫をさらうことが必要ですが、ドラゴンと姫の関係が猿聟入ではちょっと違うことに注意しましょう。
タッチやめぞん一刻にも見られる最初の求愛者の死
タッチやめぞん一刻を南ちゃんや響子さんの通過儀礼譚としてみたときには、猿聟入と同じ構図が生じる。和也や惚一郎さんはいい人で別に何も悪いことをしているわけではないことに注意してくださいね。
生贄としての猿
トーマの心臓も猿聟入的な構造を持っているのですが、近代的な作品なので人の内面が描かれており、猿が殺される理由を明らかにするのに都合がいいようです。他にもトーマの心臓が分かりやすい点として挙げられているのは最初の求愛者としてサイフリートとトーマの二人がいて、役割を分けられているところです。
爺さんに娘を要求する邪神がサイフリートで、川に落ちて死ぬはトーマなわけですが、死ぬのは善良なほうだということが強調されています。つまり、さらった悪い奴だから死ぬっていう構図ではなかったのです。
ではなんなのかといいますと、<<移行>>を終わらせるための生贄なんですね。先ほど通過儀礼には分離・移行・再結合というプロセスが必要だと述べました。最初の猿、邪神としての猿は分離フェイズに一役買います。そして死ぬ善良な猿は移行期間を終わらせるための供物として存在するというのが著者の意見です。生贄は無垢なものでなくてはなりません。嫌々死ぬのでは供物になりませんからね。
…要するに、象徴的に言えば<子供>(無垢な生贄の猿)を殺して<大人>になるっていう手続きのことを言っているんでしょうね。人に供物にされる弱さから人を供物にする強さを獲得するとかそういう感じだろうか。
ここではまだ説得力に欠けるところがあるが、終章を読み、最初の求愛者、猿とは<<移行対象>>であるという議論を読むとイメージが沸く。なるほどこれは成熟のために必要なものだ。
人身御供と社会
さらわれる娘も、成長物語の失敗として死ぬ場合があることを示す。
結局娘も、最初の求愛者も共同体成立のための人身御供だということ。
生贄の精神を無垢に…いい人に書くのは共同体の要請である。
人身御供を美談にして、社会のために犠牲になれっていう文脈で物語が使われるのは危険と著者は訴える。
*1:通過儀礼:出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。通過儀礼 - Wikipedia