宇野常寛に関する一連の記事 個人的なまとめ

ちまたで話題のゼロ年代の想像力。そのものは実はまだ読んでないだけど(ぉぃ)。
ただで読める関連文書、http://www.geocities.jp/wakusei2nd/を読んでいろいろ考えたことをいったんまとめる。

結論を箇条書きにするとこんな感じ。

  • 僕はこの感性に共感できる。
  • ロマンを認めるか否かが相違点。僕は認める派です。
  • 細かいことはともかく、東浩紀に挑戦するのはいいことだ。

時系列で記事をまとめる。

現代のエンターテイメントぶったぎり - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

第一印象。

エンターテイメントの作品をみて、オタクのメンタリティ自体を語ることそのものに説得力が薄いように感じました。

僕はひそかにコードギアスを一話も見たことがなかったりw。
ここで取り上げられている作品では、未チェックなものも多かったです。そこで言及されているオタク像と自分との違いに戸惑いました。

細分化された元オタク達への追悼文。あるいは唐沢俊一×岡田斗司夫著 オタク論!の書評 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

”オタク的なものはとりあえず教養として知っておこう”という思いがあって、流行っているものは一応追っていたつもりなんですけど、もう全然無理だと気がつきました。とりあえずハルヒを抑えておけばなんとか話が通じるなぁと思っていたんですけど、ハルヒ以降はもう追えないかも。実は僕はアニメに弱いんです。*1

この本ではオタク→プチクリっていう変遷が述べられています。これからはオタクっていうコミュニティじゃなくて、もっと小さいコミュニティで、本音を語ることが大事かなぁと思いまして自分の本音を書いてみました。

サバイヴ系時代に生き残れないタイプの ギャルゲフリークのつぶやき - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

ギャルゲーの基本は、プレイヤーが共感できる問題をもつヒロインを救うことです。その解釈までは同じなんですが、それをごまかしとみるか、いい話とみるか。そこが宇野常寛と僕の感性の違いのようですね。

ファウストに対する評価も似ていて、ファウストの歯がゆいところも共感しています。まぁ僕は、これみよがしに馬鹿にしたりはしませんけどねw。口が悪いので読んでいるとむかつくことがあるんですけど、実は現状認識や期待するものも似ていますね。

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか 仲俣暁生, 舞城王太郎, 愛媛川十三 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

最後に、ちょっと深読みしまして、ゼロ年代の想像力を青春を解体する試みの一つとして捕らえてみることにしました。高校生のころは背伸びをして寺山修司とか小林秀雄とか読んでいたので、こういう話題は懐かしいですね。しかし内容がまったく思い出せないというしょぼしょぼぶりw。青春の解体に関しては、僕は一度三浦雅士を読んで、「私っていうのは現象なんだってことで」おおまかに納得したはずなんですが、納得しきっているのかは少々疑問か。この本で言われているのは探偵小説で解体する方法ですが、群像劇で解体できないもんでしょうかね。

まとめ

今でこそ東浩紀動物化するポストモダンやデータベース消費は受け入れられていますけど、僕が最初に読んだときにはいろんな反論がありました。大塚英志は”どんなキャラにも、にじみでる作者の個性があり、データベースの組み合わせだけではわりきれない”みたいなことを言っていましたが、昔は僕もこちらのほうが説得力があるなぁと思っていました。

しかし、時代が過ぎ、データベース消費をコンテンツ製作者側が意識し始め、わざとそういうキャラの作られ方がされるようになるのを見ていると、東浩紀の説得力はどんどん増していきました。

データベース消費という文脈では、データベース消費以外の理論は間違って見えてしまいます。宇野常寛の意見に抵抗があるのは、それだけデータベース消費が浸透しているからなのではないでしょうか。*2古く見えるのも一度東浩紀以前に戻してから考えなおしているからのように思えます。
データベース消費に頼らない理論構築をしてみて、何か見えるものがあるなら、それを見てみたいですね。

*1:ラムネ&40とか好きでしたけど、そのころはちゃんと子供だったんでまぁ普通ですよね。実はちゃんと全部みたアニメはエヴァが初めてなんじゃないかなぁ。それまでは真剣にアニメみたことなんかなかった。その後、少女革命ウテナには感心して、特に劇場版は大好きですね。そっからあとはずいぶん時代が下って、ハルヒYoutubeで見るようになって一時アニメおもしろいじゃんって興味が復活したんですけど、最近はけっこう熱心に削除されているようでやっぱりついていけませんね。

*2:作品がメンタリティに影響を与えないとか…。