「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか 仲俣暁生, 舞城王太郎, 愛媛川十三

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

宇野常寛の出現は、東浩紀を超えようとする試みとして評価できます*1
データベース消費は直感的にすごく納得いく理論で、新しいものは何もかも扱えてしまった感があったのですが、そこで取りこぼしているものに目を向ける気にさせられました。
また、僕にとっては佐藤友哉三島賞受賞も大きな契機です。この機会に小説やライトノベルに関する言論を見直してみたいですね。

この本のスコープ

この本は以下の二つの問題意識からできています。

  1. 海外から日本文学をみたら、ライトノベルとかセカイ系とかミステリとかそんなジャンルわけは意味がない。一度ジャンルを取り払ってみたら、実は世界的な文学となりうる作品が生まれているのではないか?
  2. ポストムラカミの日本文学。日本の社会の変化とそれに応じた文学の変化を追いたい。

青春と自意識 いかに近代的な自我を抹殺するか

等身大の青春…、最近よく聞く言葉です。等身大の青春って何でしょうかね。なにか満たされないものを抱えた高校時代の生活と自意識のことでしょうか。まぁこう書くと青春ってくだらないもので、そんなものさっさと終わらせて大人になりたいなぁなんて思いますよね。

でも、この問題が難しいのは、”青春を終わらせたい”という気持ちがすでに青春まっしぐらであり、青春を終わらせたいと思っている限り、青春が終わらないことにあります。

読者にこの本を読む楽しみを残しておきたいので詳しくは述べませんが、著者は探偵小説の形式を借りることで、この入り組んだ青春を青春小説とともに終わらせることができると書いています。詳細は本を読んでのおたのしみってことでwなかなかおもしろいですよ。

データベース消費っていうのも、一つには青春を終わらせる方法だったかもしれませんね。キャラには内面がなく、そこに自意識なんてものは介在してこない。完全な動物化っていうのは、もしかしたら青春を殺す一つの方法だったのかも。

一方、宇野常寛は群像劇に青春を殺す可能性をかけているのではないでしょうか。群像劇は一人称でないため、自意識と距離をおけます。

恋愛小説について

話はかわりますが、本書では綿矢りさ吉田修一を取り上げて、恋愛小説とは何かという問題にも挑んでますね。

恋愛なんてものはギャルゲーでもっとも描けないものの一つです。僕が思うに、恋愛小説というからには、自分と異なった価値観を受け入れる話になるんじゃないかと思うわけです。でも、ギャルゲーではヒロインの抱える問題はプレイヤーが意味のわかる問題でないと、感情移入できませんよね。そういう意味では、ギャルゲーは恋愛なんて書こうとしてないんだと僕は思っています。素朴な恋愛シミュレーションというタイトルに反してますね。

まとめなんてかけないよw

あ〜問題が難しすぎます。僕にはよく分かりませんね。

*1:評価できますって…偉そうですね〜。気分的にはもっとやわらかい文体で書きたいんですけど、それはそれで読みにくくなっちゃうと思うんですよね。