自由に行動できるというリアリズム

ゲームで死が描けるかという問題は、動物化するポストモダン2を読んで*1初めて、なかなか重要な問題だなぁと思ったわけですが、わりと古典的な問題のようですね。僕もキャラクター小説の作り方*2は読んでるんですけど、たわ言かと思って読み飛ばしちゃったのかな。
ゲームにおける死2 さらば「リセット」よ永遠に完結編 - Try to Star -星に挑め!
RGN:第一回「死の表現をめぐって」
Critique of games「死の表現」をめぐって

なるほど、にゃあさんが首ナイフ問題とかにこだわる理由が分かる気がしてきました。ゲームっていうのはまぁエンターテイメントなわけですけど、エンターテイメントにリアリズムはいらんのかって話ですね。リアルじゃないものはダメって価値観も微妙なところですが、一方リアルなものの生々しさに惹かれてしまうことはあります。

動物化するポストモダン2は大まかにいって大塚英志のゲームはリアルな死を描くことができないという主張*3に対して、ひたすらアンリアルな材料(目のでかい美少女とか)を用いていても、独特なトリックを用いてある種のリアリティがある作品が生まれているという反論を書いたものです。

そもそも何かをゲーム化するということは、何かを記号化し抽象化して、ある種の競争にまとめなおすことだと思いますが、その過程でリアリティをなくしてしまう*4というのが大塚英志の主張でしょう。戦争をゲーム化した将棋やチェスには血生臭さはありませんね。

ただし、このようにゲーム化したことによって物語という形式よりリアリティを持つ部分があると思うのです。そもそもRPGではPCの行動を自分で決められます。それは主人公がPLの価値観にある程度そって動かせるということで、主人公の行動に対して、その人個人にとってのリアリティをあげるのではないでしょうか。例えば、小説を読んでいて主人公の行動原理がまったくもって想像できない場合、その主人公をリアルに思うことは難しいですよね。それに比べて、街の中にある宝箱を得ようとふらふらしている勇者は実は等身大じゃありませんか。

これは非常に素朴な意見で、あんまりにも当たり前なために誰も目くじらをたてて言わなかったかもしれませんが、僕はこの行動選択の自由をもってゲームは小説よりリアルなんじゃないかなぁと思ってしまったのでそのあたりを整理するために書いておきました。

まとめ

  • ゲーム化するというのは抽象化する作業が含まれる
  • その結果生々しさ、リアリティが失われることがある
  • しかしゲームにすることで小説にはなかったリアリティが生じることがある

まぁこういう整理となります。

さらに言うなら、この主張は動物化するポストモダン2の主張でもありますが、動物化するポストモダン2でとりあげられているようなトリッキーな手法ではなく、もっと素朴にリアリティをあげている部分がゲームにはあるのではということをこの記事では主張しています。

*1:ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 東浩紀 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む PCの死の一回性(動物化するポストモダン2を読んで) - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

*2:キャラクター小説の作り方 大塚英志 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

*3:リアルな死を描くことはできないのは別にゲームに限ったことではなく、小説だってしょせん記号である文章を用いて死を表現するしかないのだが、ゲームでは死を表現しようという気概が足りず、リアルじゃないならリアルじゃないでいいんでない?という開き直りが見られるという言い方のほうが正しいと思う。

*4:さっきの注釈と同じ。ゲームだからなくすというか、ゲームはそれをなくしていることに肯定的だいうこと