PCの死の一回性(動物化するポストモダン2を読んで)
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/03/16
- メディア: 新書
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さて…TRPG分は?
動物化するポストモダン2は紅茶さんはTRPG分を期待して読んでも楽しくないと書いてますけど*1、僕はそうは思いませんでした。TRPGではゲーム的な部分と物語的な部分が常にせめぎあっており、本書の内容はゲームをしているプレイヤーと物語の中にいるキャラクターの分離の問題に何かしらの示唆を与えるのでないでしょうか。
ハンドアウトなどを使ったセッションを予定調和と感じる場合というのは、PCの活躍はどんどん派手になっているのに、それを演じているPLが楽しくないという状況です。美少女ゲームのような感情移入の方法をTRPGで行うのは難しいと思いますが、”PCはPC、決してPLではないということを理解しつつも、物語に感情移入する方法”これを現代のTRPGゲーマーは求めるんじゃないかと思うのですよ。そしてGMサイドの技術としては、PLをどう楽しませるのかというのが今後大事になってくると思います*2。
リセット可能性からリプレイ可能性
えっと本書では筆者がTRPGで遊んだことがないせいか、ちょっと微妙な記述が見られます。それがリセットうんぬんの話です。まぁ一般の人には”ゲーム的=リセット可能”のほうが話が分かりやすいのかもしれませんが、まぁちょっとまってくださいって感じです。筆者はここでゲームって言ってもRPGに話を限るということをわざわざ述べてるのですが、まぁそういう意味で言うなら大塚英志が言っているのはTRPGなんだからTRPGに話を限ろうぜって話になって、そうなるとリセット可能ってのがおかしくなっちゃいます。TRPGにおいてリセットは不可能とはいいませんが*3、リセットしずらいゲームの形式でしょう。
しかし、これは些細な問題です。なぜなら”リセット可能”っていうのはキャラクターと世界さえ用意すれば物語の可能性が幾重にも存在することの一例だからです。たくさん作られる物語の中には、PCがなすすべもなく全滅する終わりもありえる、そのときにはリセットしてやり直しますってことで、本質的なのはキャラクターと世界観があれば、いくつも物語が生成でき、物語の一回性が失われることにあります。
これでもまだ実感がわかないという人は、それこそ原点のロードス島戦記に戻ってみましょう。小説ではオルソンが死にますがリプレイでは生きてますよね(たぶん…そうだよね?)*4。ここでは小説のほうが正史な気がするので小説でオルソンが死ぬシーンはけっこう悲しいシーンですが、リプレイでは死んでも、PLが下手なのかダイスの気まぐれかそういう印象になりますよね。たとえ実際は一回しかゲームをしなかったとしても、ゲームでの死はなぜか軽いのです。
ゲーム的リアリズム
さてさて、本論に入りましょう。
本書はゲーム的リアリズムの誕生ということで、萌えとか言っちゃうようなベタなキャラクターを使った新しいタイプのリアリズムについて書かれているといえるでしょう。リアリズムってのが少々難しいところなんですが、単純に人はリアルなものに感情移入しやすいってことにしましょう。こういったアプローチからTRPGプレイヤーも何か学べないか?そういった観点からこの記事を進めていこうと思います。
ビバ セカイ系!
セカイ系の話をする前に、本書で使われている”半透明”って言葉を定義しておくと便利でしょう。これは文体とかメディアについて使われる言葉で透明なものは物事を物事のままにうつすことができるものとします。たとえば画像でいうなら写真、言葉でいうなら純文学に用いられる文体です。一方不透明とは画像でいうなら単純な記号でしょうかね。言葉でいうなら御伽噺のような文体でして、この文体で現実を映すのは不可能だと思われる文体です。
ここで著者は、キャラクター小説などを記述するのは”半透明”な文体なのではないかと主張しています。これは漫画を思い浮かべてもらえればけっこうで、えーとたとえば漫画で血が飛び散ってるとしますよね。それは現実の血の飛び散り方とは違うだろうけど、こうショックを受けたりしますよね。写真とは比べ物にならないくらい省略され強調されているのに、なぜかリアリティを感じる。それが半透明なメディアの特徴です。
それで話はセカイ系となるのですが、セカイ系とは〜とか説明するのが面倒になってきました。あとで書き加えるかもしれませんが定義は本書を読んでください。それでセカイ系では日常性を維持しながら非日常的なイベントに巻き込まれるわけですが、これこそまさにダブルクロスなわけですよ。
となるとダブルクロスにおける日常の描写こそが、その物語にリアリティを与えるものでして、日常の描写は徹底的にリアルにやったほうがいいことが分かります。たとえばK市をやめて鎌倉市にしてみたらどうでしょう。PLが鎌倉市に住んでいるならなんか急に街を守りたくなりますよね。学校などで身内で遊んでいる方々はその町の名前をつかったりPCの名前を本名でやったりするとおもしろいかもしれません。これはジャーム化は避けたいですよ!
TRPGにおける死のリアリズム
さて、重要な話題に入りましたが、これはどうでしょうねぇ。先ほど”オルソンが死んでも…”という話をしましたが、死に方にもよりますよね。えーと死人がでたリプレイはそう多くはないと思うのですが、SNEはけっこう笑い飛ばす傾向ですよね。バブリーズのグイズノー が死んだけどそれが渾名のもとになるくらいだしし、藤澤さなえも冷気の杖を奪っちゃえ*5ではあるPCが死んだとき別のPCを用意していますね*6。なんだかんだいってSWはリザレクションがありますからねぇ。キャラのロストってのはそうはないです。それに大してアリアンロッドでは戦闘不能を回復する魔法はあっても死亡を回復させる魔法はないのです。あれはけっこうショックでしたよね。やっぱりあの4人の絡みが面白かったってのもありますし一人欠けるとねぇ…。TRPGはなぁなぁでやっている分キャラのロストはけっこうショックです。
この笑い飛ばす雰囲気と、死が悼まれる雰囲気の差はどこから来るのでしょうね。まぐれと不運で死ぬのはマヌケってことでPCのキャラクター性に殉じて死ぬのは英雄とまぁこういうことなのだろうか。
しかしそんなアリアンロッドを見ていると、すでに”ゲーム的な死は軽い”って認識が揺らいでるのは感じますね…とまとめて今日は終わりにしておきましょう。
付録 TRPGで不能性に挑めるか
本書の付録にAirの評論が載っています。Airというのはゲーム性を廃していて、小説のようなゲームです。通常のゲームではPCが物語りに介入することでハッピーエンドをもぎとるわけですが、本ゲームではPCすら物語りに介入できず、不能感を味わいます。
それの何が楽しいの?って思う人もいるのでしょうが、不能性ってのは基本的な泣きどころですよ。戦争などでかなうはずもないのに、突進していく兵士とか涙を誘いますよね。漫画で言うならヘルシングでそういうシーンがありますよね。僕はあそこを読むたびに涙ぐんでしまいます。
まぁそれはともかくTRPGにおいてPCがどんなに努力しても状況が改善できないシナリオは普通地雷シナリオだと思われています。まぁ僕もそんなシナリオをされたら不満の一つでも述べるでしょうね。しかし、実は商業リプレイの中でその不能性をうまく扱った作品もあります。
ローズトゥロード リプレイ ソングシーカー (Role&Roll Books)
- 作者: 小林正親,門倉直人,相沢美良
- 出版社/メーカー: 新紀元社
- 発売日: 2006/03/10
- メディア: 単行本
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正直数は少ないです。普通そんなシナリオは楽しくないからですw。
しかしまぁTRPGはゲームゆえ不能性を扱えないかっていうとそうではないってことですね。
不能性なんて使ってプレイヤーを楽しませるシナリオを書けたらすごいけど、まぁ普通はやめておいたほうがいいですね。
*1:http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20070318/p1
*2:想望のメモリアル 久保田悠羅, F.E.A.R - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む 覚悟の扉―ダブルクロス・リプレイ・アライブ 矢野俊策, F.E.A.R. - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込むこの2冊を読んで思った感想です
*3:リプレイをとるときには何度もプレイする場合があるそうですね。他の場合でリセットしてるのをここで初めてみました。
*4:このあたり記憶の劣化が激しいのですが、どうやら一度は死ぬも魂の水晶球でよみがえったという節が有力かも…。
*5:デーモン・アゲインに収録
*6:この箇所最初は秋田みやびと書いていました。誤爆してすみません。秋田みやびもへっぽこでやってしまっているらしいですが、僕はへっぽこの後半は読んでないので知りません。