ゲンロン

ゲンロン2 慰霊の空間 ゲンロン4 現代日本の批評? 上

そういやゲンロンを買いました。なかなかおもしろかったですね。

批評という病

ゲンロン4の「批評という病」がまず面白いですね。紅茶さんがよくやっている批評っぽい活動(っぽいの部分は揶揄ではなく本人の弁)ですが、僕にはその動機が理解できなくてしばしば「なんで?なんでそんなことやってるの?」と質問攻めにしてしまうのですが、そのあたりの答えの一端があるような。

「批評という病」では批評活動を以下のように整理してます。

(1)物事の是非、善悪、正邪などを指摘して自分の評価を述べること。これは辞書的な定義ですね。

(2)見知らぬ作品をどう読むべきか、新しい事件をどう理解するべきかといった課題に対し、新しい情報を提供したり判断の指針を示したりする行為。この行為の価値は分かりやすく、この活動の場合、特に動機を問う必要はないと思います。

問題なのは(3)なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれといった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文(おそらく日本以外では哲学エッセイと呼ばれ、哲学に分類される)、というやつです。この(3)的な行為は何が目的なんでしょうね。特に僕はアカデミズムの中にいる人なので、まとめて論文として発表すること、引用を正確にすること、査読をうけることなどの作法にも則ってないこうした散文は何なのか?よくわからんなと思ってました。

ひとつ安心したのは、この手の散文の価値がよくわからないということは今の時代ではむしろ普通のことで、ゲンロンという雑誌の使命の一つとして、その価値を取り戻すことと宣言されていることでした。

で、その価値とはずばり何なのかといいますと、言葉と現実が一致しない状況の気持ち悪さを解消し、言葉と現実を一致させること、とあります。この気持ち悪さを解決するというのは、自分の気持ち悪さですので、動機として切実です。

ただ、まぁ動機は分かったとしても、実際の評価(その散文を周りの人が読んで、良いと思うか)はまた別の問題ですね。この点、やはり(2)みたいな側面があれば、話は簡単になるわけですが。まぁ少なくとも、この(3)に類することの動機も評価も簡単ではない、といいうことを確認できたのは良かったです。

神は偶然にやって来る―思弁的実在論の展開について

さて、もう一点、ゲンロン2の「神は偶然にやって来る―思弁的実在論の展開について」も面白かったですね。

ただ、物理学的な観点から、今のこの世界とは違う物理定数の世界が確率的に生まれうるということは認めるんですが、今のこの世界の物理定数等が変わらないのは偶然であるというのはおかしい。物理定数というのは冷えてガラスが固まるようなもんで、固まらないうちは違う形になり得ますが、一回固まったらもうそのままです。メイヤスーの考え方そのものは面白くても、物理とか宇宙の知識がちゃんとある人にはちょっとボタンを掛け違えた議論に映りますね。

(上記、紅茶さんとこの掲示板に書いたことの転載)