社会問題が先か、哲学問題が先か
上に上げた3つの本も読んでます。ただ、ななめ読みだったり飛ばし読みだったりするし、読み終わってないものすらあります。なので本の紹介というよりも、本を読みつつ僕が思ったことについて書いていきます。
ポストモダンの説明
「12歳からの現代思想」の中でポストモダンの簡単な説明があります。モダンは社会や世界はこうあるべきだという理想が信じられている世界、ポストモダンはそれが信じられてない世界とのことです。社会や世界はこうあるべきだという理想とは例えば「歴史とは、人間がしだいに解放されていくことだ」とか「資本主義が発達すれば豊かで幸福な生活ができる」とか「コミュニケーションによって、人間は相互に分かりあうことができる」などだそうです。
さらに越境や脱構築についての説明も続きます。ポストモダンの世の中では越境する知性が重要で、それには現在支配的になっている対立構造、階層構造をひっくり返し、対立構造そのものを無効化すること(脱構築)が必要とのことです。二項対立的なものを対立として扱うのではなく、その対立を越えていくような越境が必要と論じられています。
社会問題が先か?哲学問題が先か?
「12歳からの現代思想」は他の本に比べて、非常に明解かつわかりやすく書いてあると思います。僕でも理解できます。それでもなんだかすっきりしないのは、何が問題なのかはっきりしないからのような気がします。
- 社会にはこういう問題があって解決したい
- それにはこれまでの哲学では対応できない
- 新しい哲学の手法が必要で、それを使うと社会問題は解決できる
このロジックだったら分かります。社会の問題が先で哲学の問題があとに来るわけです。
でも上の説明は以下のようなロジックになっているようにも思います。
- これまで哲学ではこう考えられてきた
- 現代の社会はそれらの哲学では対応できない
- 新しい哲学が必要
これだと社会の問題がなくて、哲学の問題だけじゃないですか。哲学に興味がある人にとっては大問題でも、一般の人にとってはどうでも良いですよね。社会問題は哲学問題の応用としてとってつけたように探してくるものになっていませんか?
このような問題意識に基づいて書かれているのが「哲学の使い方」です。この本によると日本の哲学の輸入の仕方に問題があり、西洋の偉い人が何をいったのかを研究する文献学、言うなれば”哲学”学に陥ってしまっていると指摘しています。
社会から言葉へ
「哲学の使い方」の中でもう一つ興味深いことが議論されていました。哲学が社会や時代を記述するのに成功しなくなったころ、哲学は思考の媒体である言語に向かっていきます。問題意識としては、世界をうまく語れないからこそ、その媒介である言語に注意が向いたのかもしれませんが、結果、哲学は世界を相手にするのではなく、語られた世界しか相手にしなくなっていったとするとこれは危険な兆候です。
言語のように思考と世界を媒介するものの一つに構造があります。
「レヴィー=ストロース入門」に関する感想が書かれるはずですが、疲れたのでまた後日。