議論の仕方を”ラノベをバカにして良いのか問題”から考える

先日水無月さんからブックマークをもらって、そういや最近人のブログを読んでないなぁと水無月さんのブログを読みにいったら、面白い話題を発見した。なぜラノベは馬鹿にされがちなのか → 別にいいじゃん自分が面白ければ - 現代異能バトル三昧!である。

面白いと言っても話題そのものが面白いわけではない。タイトルを見た瞬間から”そんなの人それぞれだろう”という気がしてしまう。では僕が何に注目しているかというと、”議論の仕方そのもの”である。個々の意見ではなくて、もう少し全体的な様子を整理できれば良いと思って筆をとった。

批判者が悪いという論調の整理

ブログに書かれているこの問題へのいろんな意見を見ると、どうもバカにするほう(批判側)が悪いというものが多いようだ。もちろんラノベ好きの方が意見を書いているのでこちらによるのは当然のことだ。これらの意見を3つのパターンに分類してみた。評価軸の多様性の欠如、知識不足、負け惜しみの3つである。それぞれを見ていこう。

評価軸の多様性の欠如

例えば本をおもしろおかしさと興味深さの2つの評価軸で評価してみる。ラノベはエンターテイメントに特化しており、おもしろかしさでは高いポイントを得るが、興味深さは低くなる。純文学や他のジャンルの一般小説(歴史物、ミステリー、SFなどなど)は逆に興味深さは高いがおもしろおかしさはそこそことなる。もし興味深さだけで、本を評価したら、ラノベは低くなってしまうが、逆におもしろおかしさを評価軸にすればラノベは高く評価されるべきで、評価は軸を何にするのかに完全に依っている。本来は評価軸を多く取り総合的に評価を下すべきなのに、一元的な評価しか行わないことが問題であるという立場がこれである。

議論の発端の前半はこれに近い(なぜラノベは馬鹿にされがちなのか)。また、評価軸として貴族的ものと大衆的なものを比べると、大衆的なものはバカにされやすいという指摘もある(ライトノベルもケータイ小説も太宰治も、文学として馬鹿にはできない。 - ときまき!)。

少し変わり種では一般小説vsラノベというのではなく、マンガvsラノベという背景で設定の多様性という軸においてラノベが負けているという意見もあった(ライトノベルが馬鹿にされがちな三つの理由 - WINDBIRD)。

何にしろこれらは、ジャンルにより得意・不得意はあるのだから、一元的な評価軸で異なるジャンルを比較することを問題視している。このこと自体は常識的で論理的なようにも思えるが、行き過ぎると、どんなにダメなものでもうまく評価軸を選べば肯定的に評価できることにはならないだろうか?問題はより難しくなるが、評価軸としておもしろおかしいと興味深い、どちらを重要視するべきかという問題も立てられよう。これはどちらか決着をつけるためというよりは、物事を深く理解するため、あるいは共通の価値観を育てるために考える仮想的な問題である。こうして評価軸や価値観そのものの方向性も議論するべきではないだろうか。

知識不足

知識不足という言葉で一括りにまとめたが、この中にはいろんなレベルがある。抜けがあるかもしれないが、3つにまとめてみた。
(1)批判者はラノベをまともに読んだこともないのに伝聞や印象でバカにしていて、そもそも批判する資格がないという意見(ラノベを馬鹿にしているのは誰なのか - 主ラノ^0^/ ライトノベル専門情報サイト「ラノベが批判される理由」なんて心の底からどうでもいい)。
(2)ラノベといってもその中身は千差万別であり、良い物も悪いものもあるが、批判者は悪目立ちしているものをラノベの代表のように考えているという意見(http://tm2501.hatenablog.com/entry/2015/02/01/080624)。
(3)ラノベを楽しむためにはある程度予備知識やそれなりの習熟が必要という意見(私がラノベをバカにしている唯一の理由 - 360万パワー)。

このうち(1)や(2)は、とくにラノベに限った話ではなく、よく知らないものを批判してはいけない、あるいは少数のサンプルで全体を評価してはいけないという一般論でまとめられるだろう。ジョンレノンのあなたがよく知らないものを嫌わないで欲しいという言葉を思い出そう。

(3)はそれとは少し異なった主張のようにも思える。ラノベを深く鑑賞するためには、これまでのラノベを参照しつつ、そこからの差異を評価する必要があるというものである。美術館や博物館で展示物そのものよりも、その歴史の解説を読んでより楽しむようなものだろうか。僕はこの意見には少し懐疑的だが、ラノベはゲームやアニメの参照が多く、確かにそれらの知識がないと十分に楽しめない可能性はあるとは思っている。このようにラノベ読者が当然のように持っている知識と一般小説の読者が持っている知識に隔たりがある場合、こうした隔たりの存在の自覚することが、双方にとって実りある歩みの第一歩になるのではないかろうか。

負け惜しみ

ラノベは売れていて、純文学は売れてない、純文学のファンがそれを妬み、ラノベをけなすことで溜飲を下げているという趣旨のことが多くのブログで書かれていた。純文学が売れてないことは、純文学の解決するべき課題であり、他のジャンルの足を引っ張るのは確かにどうかと思う。

こうした感情のもつれは理想的には解決するべきだろうが、なかなか面倒ではあるので実害が大きくない以上手をつけるべきではないかもしれない。ただし、今一度、批判者も反論者も自分が感情的になってはいないか確かめることは有意義なのではないろうか。

まとめ

長くなってきたので一旦筆を置く。ラノベはバカにされがちという問題がいろんなブログで様々に議論されている。読んだだけでは、どういう争点なのかうまく理解できなかったので、自分なりに整理してみた。今回はバカにした側が問題という方向の意見をまとめたが、ラノベにも確かに問題があると認める立場の意見もあった。今後時間があればそちらについても考えてみたいと思う。

僕としては今回のまとめは、何かを批判する時の教訓にもなりうると思っている。何かを批判したくなった時、評価軸の設定、知識の多寡、感情のみだれなど自分で確認してみると、より建設的な批判になるのではないだろうか。