セカイからもっと近くに 東浩紀

最近は東浩紀の著作から遠ざかっていたのですが、紅茶さんが非常に盛り上がっていたので、話の種に読んでみました。僕にとっては面白い本でしたが、内容には納得いかないところもあります。そのあたりをまとめておきます。

社会と文学

そもそも本書は日本のエンターテイメントは社会の問題などを反映していないという前提からスタートします。従って文芸批評が難しくなっていると。

ただ、これって本当でしょうか?例えばラノベをみても、なれるSEや働く魔王様などに代表されるように、あるいは少し昔のギャルゲーのクラナドを見ても分かりますが、働くことの厳しさや、ブラック企業の問題などが取り上げられています。蟹工船は社会と密接に関係しているけど、上記の作品は社会と密接に関係してないというのはちょっと無理筋ではないかと思うのです。

また、働きマンとかきみはペットなどは女性の社会進出に関する話題を取り上げられているように僕は思います。

もちろん話を面白くするために、美化されたりデフォルメされたりして、写実的に現実を写しとろうという作品ではありませんが、そこはエンターテイメントってそういう性質のものでしょう。

なのでこの前提を認めるのはちょっと疑問で、むしろ、僕が思ったのは”社会と関係を持ちたくない気持ち”を持った人々がいて、その人達に受け入れられ易い作品群があるんじゃないかとうことです。僕なんかもそのグループに当てはまります。このグループに属するかどうかは性別や世代に依っていて、そういう人たちにとっては面白い本なんじゃないかと思いました。

世代にもよると書きましたが、そもそもここで問題にしているセカイ系というのは主に2000年代に流行った風潮で、時代にも依っています。今を切り取るというよりは少し前のトレンドを整理していると思ったほうが良いでしょう。

本作は4人の作家を取り上げてそうした社会と乖離した創作の中でも社会と結び付けられる可能性について述べていきます。僕もそれぞれについての印象を書いておきます。

新井素子

残念ながら新井素子の作品を一作品も読んでないので、筆者の読みに面白みを感じることはできなかったのですが、僕はいまいちこの説の主張に納得がいきません。

僕なりにまとめますと、社会的なものを描けなくなる風潮の中で、新井素子のある作品の特徴は創作したキャラクターたちが作者の想像を超えて動き回り、自分では制御しぎれない作者の家族のようなものになって、小さな社会を築くというものです。

僕が創作者ではないからかもしれませんが、あんまり実感が持てないことですし、そもそもそれって社会なのかという疑問もあります。いまいちピンと来ない話でした。

法月綸太郎

法月綸太郎の作品も実は読んでないのですけど、こちらには多少ピンとくるものがあります。

僕なりにまとめますと、結局哲学的な問題に悩むのは母親の庇護下の話で、庇護を出て恋愛すれば、他者との付き合い(社会)が生じるというものです。

僕は必ずしも恋愛に拘る必要はないと思うのですが、母親の庇護下から出るということがこうした答えのない袋小路から出ることに繋がるというのは賛成です。お金を稼いて生活しなければならないので、答えの出ない問いに悩んでないでもっと生産的なことをしようということだと思います。

押井守

押井守は筋金入りでして、永遠のモラトリアムにとどまり、成熟を拒否して、同じような展開のループを繰り返しても、各ループはちょっとづつ違っていてそれはそれでOKなのではという立場のようです。

まぁそれで生きていけるんならそれでも良いかもしれませんね。

小松左京

小松左京も一作も読んだことがないんですよね。なので非常に表層的な理解ですが、とりあえず筆者の主張をさらうと、子供を作る生殖の渇望が社会性の回復に役に立つといっています。遠回りしたわりにはわりとオーソドックスな結論かもしれません。

まとめ

まとめって言っても4人の各論で終わっていてそれらをまとめた視点というのはないのですが、最初にも述べたとおり創作と社会問題はほとんど関係なくなっているという前提は疑いがあり、時代にも依る話、というかそういう時代もあったというべきでしょう。なので今後、こうした文学批評が面白くなる可能性もあります。

東浩紀もこれが最後の文芸評論という言い方をしないで、むしろ、純文学ではない文芸評論の手法を今後もっと洗練させていくべきで、もっといろんな人がこうした考察を試みると面白いとか、希望を持たせる言い方にしておけば良かったんじゃないでしょうか。

そうすると例示よりも現代思想のキーワードとの関連など教科書的な内容を書いてくれたほうが後に続く人にとっては助かりますのでそういった続刊を期待致します。教科書的なというからには文芸評論の作法なんかも充実して欲しいです。例えば、現代思想のある結論を補強するために、文芸をこじつけるような態度ってつまらないと思うのですよね。現代思想ではまだ整理しきれないような、話の種が文芸につまっていてこそ面白いんだと思います。そういう意味では新井素子の話と押井守の話が現代思想の中でどのように位置づけられていくのかなど、考えたら面白いのかもしれないと思っています。