ゲーム内の常識に逆らうプレイング

先日、CSTの優れたデザイン - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込むについて話しました。今日はその続きです。

前回ではCSTでゲーム内の常識、所属組織の目的に沿ったプレイングとゲーム内の常識よりもキャラクターやプレイヤーの感性にそったプレイングを対比させました。ただ、長くなるので前の回では省略した話題があります。まおゆうの魔王VS勇者の構造とあの丘の向こう側というのも。この対立構造をしているのではないかということです。元々この話の提供者である紅茶さんが指摘したのはこのことでした。

まおゆうというとちょっとTRPGから離れてしまったという印象もあるかもしれません。しかし考えてもみてください。わりと昔の作品でSW RPGのリプレイ、スチャラカ冒険隊シリーズがあるではないですか。あれもファンタジーの世界での常識に反して、”モンスターは生まれからして邪悪なのかどうか”を取り扱っており、ゲーム内の常識と違う結論をプレイヤーキャラクターが出すところに、面白みがあります。

こう考えてみると、ゲーム内の常識に反する方向性のシナリオは非常に強力にも関わらず、手法として確立してないがために、一般に広がってないと言えるかもしれません。

たぶん、それは構造的な問題です。主人公が冒険者で戦闘スキルを一生懸命磨いているのに、平和的な手段で物事を解決する方向に考えが向くでしょうか。難しいと思います。悪者を切っては捨てたいのに、和平ってめんどいですよね。まぁこのへんは先人に習って、モンスターを守るべきヒロインにしてしまえば、それを狙うものとの戦闘が生じるので、そうして解決すれば良いでしょう。

また、プレイヤーの価値観とゲーム内の常識、どちらを優先させるのか決めづらいのもあります。最近SW2.0で遊んでますが、あの人間側と蛮族側の対立って完全に宗教の違いと人種の違いから来ており、現代的な観点では戦争を継続なんて愚かな選択だと思いますが、そういう観点で設定を見る人は稀でしょう。プレイングにその世界の常識を反映させるというのは、良いことと考えられており、そこを外して良いものか、悩ましいです。まおゆうの場合、魔王が現代的なものの考え方をする一族ということになっているので、そうした設定を作ってしまうのも一興かもしれません。ただし、スチャラカ冒険隊ではこの問題に特に対処しておらず、TRPGではキャラクターに現代的な価値観を持った中の人がいることは暗黙の了解ですから、この問題は放置しても大丈夫かもしれません。

最後の問題は常識を破壊するメリットです。常識をくつがえすということは、その常識を持った人間からは疎まれますので、敵が増えるんですね。そこまでして常識をくつがえすためには、大きなメリットがないといけません。自分の属する正義側が腐っているという状況なら、変えることに意義があるし、ついてくる人も多いでしょうが、害が少ない場合、常識や現状を破壊するのには根拠に欠けます。実は最近真女神転生4をやったのですが、惰性で進んでいくと現在の法と秩序を守護するロウルートになってしまうと思うんです。現在の法を打倒し、新しい秩序を打ち立てるニュートラルのルートは敵が多くて(強くて)楽しいのですが、自分の主義主張的な理由でニュートラルを目指す人は多くはないかと。何かを変えるのは大変なことですので、それなりの理由が必要かもしれません(この点、ちょっとロジックが弱いのですが、真女神転生のロウルートとニュートラルルートの関係をこの文脈と結びつけておくことには意味があると思っています)。


まとめます。ゲーム内の常識に反する方向性のシナリオを作るにあたって難しそうなところ、3つほど論点を挙げましたが、こうした点をクリアーしていくと、満足度の高いシナリオが生まれるかもしれません。

(1)戦闘が常識だとして和平を目指すとプレイヤーキャラクターのスキルが生きない。=>和平の象徴たるものを守るべきもの(ヒロイン)にすれば、それを狙う敵との戦闘が生じて解決。
(2)世界設定にあった常識でプレイングするのは基本的に良いことである。=>例外的に現代的な考えをするのにふさわしい設定を足す。TRPGの場合足さなくても大丈夫かもしれない。
(3)破壊される常識側が敵対してしまう。=>敵対する人が増えることより大きなメリットが必要。常識側に問題を作り、それを看過できないような設定をキャラにつける。