TRPG論考の意義付けについて補足

(すみません。この記事、公開するときにタイトルを変更し忘れるなどのミスがありましてトラックバックが変なことになっているかもしれません。気になるようでしたら適当にご修正ください。)

さて、先週末にggincさんからコメント頂きましたが、僕の伝えたいことはだいたい伝わっているようですし、それなりの結論もでています。

「共有できない/理解できない/誤解を生む。だから、もう少し巧く書けよ」という気持ちと、「共有できない/理解できない/誤解を生む。それは、たぶん(まだ)仕方ないから、その都度誠実に書いていくしかない」というのは、行動指針としてはほとんど同じことになります。僕は結局のところ、もう少し巧く書くべきだし、巧く伝えるべきなのでしょう。
共感/理解/誤解をめぐって――問題関心を処理する時の、個人的感覚 - God & Golem, Inc.

これ以上のお返事は重箱の隅をつつくような細かい話になってしまって、そういうことをいちいち指摘してもお互い面白くないんじゃないかと思い、案外お返事に手間取ってしまいました。この話は基本的にはだいたい終わっているという認識です。

いろいろ考えたすえ、重箱の隅とはいえ、なんとか多少新しい認識も提供でき、お返事の体裁を一応整えられそうなのでまた書いてみました。

研究目的は結論が出てから考える

まず、ちょっと奇妙な話をさせてください。研究目的があってそれに応じて研究を進めていくというのが普通だとみなさん考えますでしょうが、じつは研究目的はある程度結論が得られてからその結論に合うよう、最後に考え直すことが多いです。

もちろん最初にも研究目的があるのですが、最後まで同じ研究目的が保たれることはむしろ稀かもしれません。研究の過程でこのやり方では最初の目的を果たせないという結論に達したとき。結論を覆すことはできませんし、その結論以外の副産物的な成果を捨ててしまうことも勿体ないので、さも最初からその副産物を発見するために研究していましたと逆に研究目的を書き直します。また最初の目的よりも面白いことが見つかり、良い意味で研究目的を変更することもあるでしょう。

ggincさんの話もこれに近いんじゃないかと思うんですよね。社会学的な動機で発見したアイデアだとしても、TRPGのコミニティになんかしらのフィードバックができそうなことが見つかるとするじゃないですか、そうしたらTRPGコミニティにウケそうな位置づけを結論から逆算してでっちあげてそれで発表すると良いのではないかと。

でもブログにあげる記事はそういった位置づけが行われる以前の段階で、むしろそのあたりの意義付けのアイデアが読みたくて原稿を公開しているんだというのが、ggincさんのお返事から読み取れました。そのせいで、こうした記事をポジティブに評価し積極的に応用例を考えてくれるような読者との相性が良い記事になっており、逆にそうした応用例が今すぐ欲しい読者に対しては意味の分からない重要性が感じられない記事になってしまっているでしょう。

そうとなればこういう変わったことを思いついたんですんけど、誰か応用してくれませんか?というスタンスが示せれば良いのかもしれませんね。

まぁブログではそれで良いと思いますが、実際の研究では最初の研究動機を一旦白紙に戻して、結論と想定読者から研究動機を逆算するという思考方法が大事になる場面は多いと思いますので、そこは是非身につけてくださいませ。ただそうは言ってもこれが結構難しいのは知っていますw。みなさん躓くところです。

TRPGプレイヤーというワーキンググループの特性

先日の僕の記事では、TRPGプレイヤーというコミニティでは”TRPGを楽しく遊ぶ”ということ以外、誰もが共通して持っている価値観はないので、導入ではは必ず、”TRPGを楽しくするには〜”で始まるのではないか意見を述べました。それに対してggincさんはそこはそんなに強い制約ではないのではないかとおっしゃってます。

会話型RPGについての議論って、たぶん「プレイの役に立つtips」という話が一番わかりやすいと思うんです。僕もしばしば、「そういうtipsを提供することこそがTRPG論であって、あなたの議論はそういうものになっていない」と言われることはあります(笑)。でも、「じゃあ、何がプレイの役に立つtipsなのか?」とゲーマーに尋ねてみたとしたら、それこそ千差万別の答えが返ってくるはずなんです。

 つまり、「プレイの役に立つtipsを書けばよい」というような問い/解決のセットは、実のところ、具体的なTRPG論を書くための最大公約数として、それほど強い紐帯じゃないんじゃないの、と僕は思っちゃうんですよね。

確かに僕もTIPSの具体的な中身については千差万別な答えが帰ってくると思いますが、それは”論考の目指す意義は分かった上で具体的な方法論で意見が分かれているのであって”、”そもそも論考の意義が分からない”状態ではないと思います。具体的な方法論で反対というのなら、反論もまだ論理的になされるように思うのですよね。でもそもそも論考の意義が分からない場合、”意味が分からん”で終わってしまうのではないでしょうか。そのような意味が分からない記事が増えると、”TRPGの論考なんて意味がわからない無駄なもの”という印象が助長され、新しい論考を読むときにもその印象を持ったまま読み進めるという悪循環に落ちいってしまいます。そういう意味では形だけでもTRPGを楽しく遊ぶためという始まりのほうが良いように思うのですよね。あとにどんな記事が続くにしろ最初だけは。

もう少し別の観点からこの話に言及しますと、それに関わる人の立場が多様な場合ほどいろんな研究動機が許されるんだと思います。例えばゲームのコミニティってゲームを楽しむコアなゲーマーだけで構成されているわけではないですよね。子どもがゲームにはまって心配な親や、遊びによって人間を定義をしようとする人々まで、多種多様なゲームへの関わり方が有り得ます。そういったコミニティでは必ずしもゲームを楽しく遊ぶという観点から外れた論考も許されると思うのですが、ほとんどがゲームプレイヤーであるコミニティに対しての提言としては、その意義が受け入れられにくいのではないでしょうか。

昔、馬場論のころは、”TRPGを紹介するために、ゲーマー以外に通じる言葉を持つべき”みたいなTRPGの論考に対する意義付けもあったと思うのですが、今この論理はそれほど有効ではないように思いますね。幻想遊戯さんが楽しさを伝えたいなら楽しいと叫べば良い。とおっしゃってますが*1、それは一理あるかと思います。

TRPGを楽しくする提言、以外の意味でのTRPG論考の意義付け

とはいえ、僕がとっさに思い浮かばなかっただけで、”TRPGを楽しむための提言”という形以外にも読者に納得がいく論考の意義づけはあると思います。

例えば、TRPGのメカニズムを解析することを、”攻略”の一部分とみなすのはいかがでしょうか。コンピューターゲームではコンピューターのアルゴリズムの特性までさかのぼってゲームの攻略をすることがあると思います。TRPGでもその基本的なメカニズムを解析することがTRPGの攻略に役に立つという立場はあり得るかなぁと思います。楽しく遊ぶというよりも楽しいゲームを完全に攻略したいという動機です。

また、TRPGのメカニズムを一つのアートとして、そのシステムの巧妙さを鑑賞するというのもありかと思いました。これは例を出さないと分からないと思いますが、例えば堀井雄二のポートピア殺人事件でヤスという存在のゲームシステム的な意義を考察する*2のは、ゲームを楽しむという観点からは必ずしも正当化されなくても、堀井雄二の仕事の巧みさとして評価されるべきだと思います。ドラクエの遺体を調べたときにでるメッセージ「へんじがない。ただのしかばねのようだ」の意味の考察*3なども同様です。

要は読者を納得させられるだけの論理性をもった意義付けが最初になされていてば特に”TRPGを楽しむためには”という書き出しに拘る必要はないかと思いますが、それ以外の場合にはやはり若干分かりにくいので一工夫必要なんじゃないかと思います。