ブログでエッチな話をするって一体どういう了見なのさ!

僕はブログというある程度公の場所でよくエロゲなどエッチな話をしているわけですが、なぜ恥ずかしげもなくそんな話ができるのかの理由をお話したいと思います。

エッチな話の反社会性

エロい記事を読んで不快になられる女性の方、男性の方がいるのは承知しているのですが、不快に感じる場合、その理由まで考えたことがおありでしょうか。たぶんないんじゃないかと思います。その方にとってあまりに当たり前なことなのでつっこんで考える機会は少なそうです。

僕が思うにこの不快さの原因というのは、「公の場でエロい話をしてはいけない」という常識やルールを破っているにも関わらず、書き手が平気でいることに共感できないからなんじゃないでしょうか。

僕がエロいことを書いても平気な理由は、この常識やルールというのが絶対的なものではなく社会的なものだと思っているからです。エロさに関する常識というのはところ変われば全く変わってしまいます。服を着ないことが普通の人と僕らではエロに関する概念が違ってしかるべきです。自分の仲間を殺してはいけないとかそういった禁忌は社会が違っても通用しやすいと思いますが、ことエロさに関する禁忌というのはかなり社会に依存するものでしょう。

こうした自分の常識や趣向を形作る社会の枠組みを自覚し、わざと外してみせるということは知の一つのあり方だと思っていますので、エロい話をすることもまぁ一つの知的な戯れなんですね。

ちなみに、僕は渋澤龍彦のエロティシズムを読んでからこういう考えをするようになりました。この本で挙げられている例がなかなか印象的だったからです。僕らはいろんな機会に花を贈りますよね。お見舞いとか母の日とか結婚記念日とかに。しかし、花って良く考えてみれば植物の性器なわけじゃないですか。”人類はお祝いごとの際、他の生物の性器を切り取って贈りあう習慣がある”なんて穿った言い方もできちゃうわけです。こういう言い方をされてみると自分の常識に疑いを持てるのではないでしょうか。

エッチなのはいけないと思います」って言葉がありますが、このいけなさというのは社会的なものでして、その社会の枠組みを相対化したような視点の下では必ずしも「エッチなのはいけない」とは限らないですよねってことですね。

エッチな話の社会性

今までエッチなのはいけないという話をしてきましたが、ここからは逆にエッチでないといけないという話をします。

出典が思い出せず申し訳ないのですが、男性間のコミュニケーションでは絶えず自分がホモセクシャルではないことを証明しなければならないという話をどこかで読みました。自分がホモセクシャルではないことを一番簡単かつ雄弁に表せるのが女の子の話とかエロい話なんです。男性どうしで深く付き合う際、それが友情ではなく恋愛感情からきているものかもしれないとなると、自分はいつか食われるんじゃなかろうかという恐れがあるわけです。そうなるとお互いがヘテロセクシャルであると確認できない限り腹をわって話せない。性に興味がないとかいうのもちょっと得体のしれない感じに映りますし、一番簡単なのは明るくオープンなエロさを出すことですね。エロい話というのは男性間のコミュニケーションを活発にするんです。

僕らは知らない人と話すときほど、車の話とか食べ物の話とか、とにかくわかりやすい話をします。その中の一つとして、特にその場に女性がいないときには女性の好みの話に発展しやすいですね。このときあんまり女性に興味ないとかそういうことを言うのはマイナスで、共感が得られるようで、自分の普段の性格とも矛盾がない好みを話題として用意しておくと人と仲良くなりやすいように思います。

まとめ

このブログではエロゲのレビューが続いていますので、エロい話を公の場でしていることに関する僕の了見を一度書いておこうと思いました。いきなりみると不快感があるかもしれませんが、その不快感はなんなのか一度考えて欲しいです。こうした話でそうした不快感が多少でも和らぐと良いのですが。