自由という概念のやっかいさ

鏡さんが1年半にも及ぶ長期にわたって書いた、自由なTRPGに関する論考が終結しました。

この議論のため、僕は自由に関する本を何冊か読みまして、結果的には大変勉強になりました。ただ、結論から言えば、自由なんていうやっかいな概念を持ち出さないほうが、もっとすっきりとした議論になったんじゃないかと思いますw*1。今回は自由という概念がなぜやっかいなのかリバタリアニズムという思想を紹介しながら説明し、平行して鏡さんの自由論の抱える問題点についても語ってみようと思います。

ゲームデザインがPL主導かGM主導かという話で済ませばいいものを自由という概念を持ち出して混乱しているというのが僕の主張なのですが、僕の記事はリバタリアニズムリベラリズムを持ち出してさらに混乱しているというご批判はあると思いますw。まぁ、そこはこれらの概念と鏡さんの議論との類似性におもしろさを感じてもらえるかもらえないかという話で読者を選ぶ記事になってしまっていることは自覚しています。

鏡の自由論とリバタリアニズムの共通点

鏡さんの自由論は、PLはPCを自由に行動させられる権利を持つというところから出発します。これはリバタリアンが”自然権”を重要視するのに良く似ています。自然権とは”自由にものを考え、自由に行動する権利”のことです。この権利はリバタリアニズムを正当化する二つの方向性の一方となります。もう一つは、自由に行動したほうが、政府などが管理するより富の分配がうまくいくという考え方で、そちらを主張する人を帰結主義リバタリアンと呼びます。

消極的自由の問題点

自由という概念を議論するときよく引き合いに出されるのが消極的自由と積極的自由です。消極的な自由は○○からの自由を司り、自分の決断が他のものに影響されていないことを意味します。積極的自由は○○への自由を司り、情報から自分なりの決断ができる能力があることを意味します*2

リバタリアニズムはどちらの自由なのか実ははっきりしないところもあるのですが*3、少なくとも消極的自由とは相性がいいです。

ここで消極的自由の抱える問題点と鏡さんの議論への批判を平行してのべていきましょう。

自己奴隷化

消極的自由はいろんな権力の影響をうけないことを旨にする考え方なわけですが、自らその自由を捨てたいという欲求を正当化できるのでしょうか。人の奴隷になりたいという考えまでも消極的自由のなかで正当化できるのか謎です。

鏡さんの議論でも、自分から管理されたいと思う人をどう扱うのかについては問題含みですよね。自由と管理という二項対立から議論を始めたはずなのに、自由の中で管理を正当化すれば二項対立がやぶれ、正当化できないなら自由の定義を考え直さなければならなくなります。

どこまでが人為的

○○からの自由といったとき○○にはどんなものが入るのでしょうか。通常考えるのは人為的な権力です。天候や自然現象や誰のせいでもない偶然から自由になることは誰にもできません。さてたとえばどこかに移動する際、天候によって行けない場合も、誰かに引き止められて行けない場合もありえますが、どうして人為的なことばかりから自由になりたがるのでしょうか。渋滞など人為と自然現象との区別がつきにくい場合はどうするのでしょう。消極的自由が何から自由になるのかはいまいちはっきりしないところです。

鏡さんの論でも、ルールブックに書いてあることからは自由になることを志向しないのに、GMの意図からばっかり自由になることを求めていて、ルルブの制限であろうとGMがした制限だろうとPCからすれば同等なはずなのに片方ばかり排除しようとするのは恣意的に見えます。

帰結主義リバタリアニズムリベラリズム〜富の再分配を巡って〜

これまでリバタリアニズムや鏡さんの自由論の理論的な問題点を考えてきましたが、結果的にうまくいってしまうなら理論的問題点なんてどうでも良いという立場もあるでしょう。ここではリバタリアニズムのほうがそうでないよりうまくいくかどうかを考えていきたいと思います。

リバタリアニズムの対立概念にリベラリズムという概念があります。この2つは人格的自由を重視するという共通性を持つ一方、財産的な自由について正反対の性格を持っています。

リベラルな立場では社会権を重視し、リバタリアン自然権を重視するのと対照的です。
社会権とは人間が人間らしく生きるための権利のことで具体的には生存権や教育を受ける権利や労働基本法で保障される権利を表します。比較的最近導入された権利で、以前は貧乏は自己責任という考えがなされていましたが、この考えでは、構造化されて誰のせいでもない貧困から人を救うことを目指し、政府による富の再分配を肯定します。リベラルな立場を考えるとき重要なのは、”自分がもし一番虐げられた人の立場だったら”という想像です。運によって自分が一番虐げられた人になるかもしれないという前提をもつことで、恵まれない人へ重点的に富を分配することが肯定されます。

政府による富の再分配は、リバタリアニズムと相反します*4リバタリアニズムでは、最大多数の最大幸福は自然な相互調整メカニズムにより実現されると考えます。市場こそ最適な富の分配をしてくるので政府による富の再分配を否定します。

鏡流の自由な遊び方がリバタリアニズムだとすると、鏡流の管理する遊び方は、リベラルに対応します。GMの意図にのるとかのらないとか考えないほうが、PLたちの意見調整能力によって結果的に適切な結果が生れるという考えと、そのセッションで一番つまらない思いをした人もそれなりに面白かったと思えるようにGMが最低限のおもしろさを保障する考えとの違いです。

実際のところTRPGのセッションは市場ほどの自己調整能力はないので、おのおのが勝手に遊んだほうが面白くなるという議論はなかなか展開しにくいように個人的には思います。

定量的(?)におもしろさを比較してみる

最後に自由なリバタリアニズムに基づいた遊び方と管理されたリベラルな遊び方のおもしろさを定量的に比較してみようと思います。通常おもしろさなんてものを定量的に比較することは不可能なのですが、紙魚砂さんが興味深い方法を提案しているので、それにのっとって行います*5

ネタが拾われる回数

自由な遊び方の場合、GMはPLのネタを拾うしかないのでネタが拾われる機会は増える。

魅力的な課題の解決

自由な遊び方では自分のPCの一番解決したいことにチャレンジできる。

一方、人は自分で課題を出し自分で答えることにわざとらしさを感じるので、この観点からは管理する遊び方のほうが有利。

出番

GMが一人しかいない以上、自由に別行動をした場合の待ち時間はできてしまう。パーティー一丸となった行動よりも待ち時間はできやすい。おもしろさがあがるかどうかは微妙。

まとめ

鏡さんの自由な遊び方に関する論考がまとまったようですが、実際のところ自由という概念はそれ自体なかなかに込み入った概念なので、そんな概念を持ち出さないほうがすっきりしそうなように思います。

なぜ、自由という概念が込み入っていてすっきりしないのかを、リバタリアニズムという政治的な立場を紹介しながら説明し、鏡さんの議論でも同種の問題がひっかかることを指摘しました。

後半では鏡さんの議論における管理する遊び方をリベラルという概念と対応させることで、鏡流自由な遊び方とリバタリアニズムという対応の根拠を増やしました。

最後に紙魚砂さんの提案した定量的な方法により、鏡流管理する遊び方と鏡流自由な遊び方を比較しました。

*1:残念ながら関連する僕の記事もあまりすっきりとした議論にはなってないのですが、鏡さんの論はPLがゲームデザインを提案するかどうかという観点からみたほうが、よりすっきりすると思っています。ゲームデザインを管理するのか自由にするのか - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

*2:消極的自由にしろ積極的自由にしろ自由のあるなしはまずは主観だということに注意してください。そもそも自由なんてものはあまり客観的なものではないのです。唯一の例外は選択者が消極的自由を感じていて選択者以外の人が選択者の選択に積極的自由を感じている状態です。TRPGにおける相互承認と自由 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

*3:ぼくもわたしもリバタリアン - おおやにき

*4:リバタリアンと相続(1) - おおやにき

*5:TRPGの「楽しさ」を定量化してみる(2):(・_・) : 紙魚砂日記