TRPG論考の現在

年の瀬ですね。今年を振り返る一環としてTRPGについての言説を一望してみたいと思います。27日から怒涛の論考が続いていて長文を読むのに疲れた方も多いかも。ごめんなさい。

本年度後半ではTRPG批評についての議論が盛り上がり、僕も久しぶりに現代思想の本なんて読んでしまいました。今回はモダンとポストモダンという概念をつかって大胆かつ大雑把にTRPG論者の視座を整理し、これからのTRPG論考の方向性を占います。

モダンとポストモダンの人間像と社会像

TRPGの話に入る前にモダンとポストモダンとは何なのか、その二つの思想が示す人間像をつかって簡単に紹介します。

モダン

まずモダン(近代)な思想では人間を労働・生産をする理性的な主体として見ていて、理性的な主体がコントロールする社会像を持っています。

ポストモダン

ポストモダンは何か一つの立場を示すわけではなく、モダンな立場が成立しなくなった社会や人に関する思想の総称です。傾向としては人間を消費主体として見たり、放蕩・遊びに注目したりします。消費されるものの価値は言説により決定され、移ろいやすい社会像を示します。

ポストモダンの反省

ポストモダン思想は一時期一世を風靡しましたが、最近ではさすがにいきすぎたと反省が始まっているそうです。
このポストモダンを見直す社会背景としては、平成不況により消費や放蕩や遊びで自らを語るのが不安になり、生産や労働で特徴づけられる折り目正しい世界の安定を求める方向に立ち戻ったということもあるそうです。

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)
ちょっとおおざっぱすぎるまとめですが、僕もこの手のことの専門家じゃないのでご勘弁を。ここで話したモダンとポストモダンという思想の盛衰については集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)を参考にしました。モダンやポストモダンの思想を簡単にまとめてある分かりやすい本です。日本の状況にもページ数を割いてあり参考になります。もうすこし新しい動きについてはNHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本も多少参考にしています。

TRPGコミニティの社会像・TRPG者の人間像

まとめが大雑把かつ抽象的すぎて、頭にはてなマークが浮かんでいるかもしれませんが大丈夫です。これからTRPGの話に戻ります。

TRPG界におけるモダニズムの象徴とはまさに馬場論考でしょう。
馬場論考における”理性ある良きTRPG者”の特徴とは以下のようなものです*1

  1. 上達を目指している
  2. プレイングスタイルの良し悪しが分かる
  3. いろんなシステムを経験していて評価眼がある

これら資質を持ったTRPG者像をモダンなTRPG者とするならば、ポストモダンTRPG者の特徴とは以下のようになるでしょう。まぁこれも馬場論考に書かれているのですが…。

  1. 楽しさに一番の評価基準を置く
  2. プレイングスタイルに良し悪しをつけない
  3. 一つのシステムで満足し、他のシステムに目を向けない

この二つの立場のうち、完全に片方の立場をとる方はあまりいないと思いますが、馬場論に対する反論として提出された論考はおおざっぱに後者の傾向を持っていたのではないでしょうか。

モダンとポストモダンの議論の仕方の問題点

モダン思想やポストモダン思想の一般的な問題点はよく把握されています。モダンやポストモダンなTRPG論も、やはりその傾向から逃れられません。

モダンの問題点は、自分の立場を相対化できない、違う立場のものを認めにくいというものです。TRPGの例で言えば向上心がある人間観を普通だと思っているので、上達を志さない人間を蔑視しがちです。プレイングの良し悪しを決める以上、悪いプレイングスタイルという認識を作ってしまいがちで、そのスタイルが良いプレイングとなる別の文脈を認めにくいという特徴もあります。また、その良し悪しを決めた自分の理性を信頼しすぎる傾向にあります。

ポストモダンな立場はモダンな立場の批判としては有効で、上記の問題点を浮き彫りにしましたが、ポストモダンもまた問題があります。自分の立場の正当性を疑うのはいいですが、疑いすぎては意味のあることを主張できなくなってしまいます。また相対主義は、自分と違う意見を認める立場ではありますが、自分の立場もまた短絡的に肯定しやすい考え方です。互いの意見調整を諦めると交流範囲も自分と似たようなことを考えているグループに限定され、小グループが乱立します。そして小グループの乱立の結果全体像が見えない不透明なシステムが出来上がり、未来像が描けなくなります。

TRPGでいいますと、良いスタイル、悪いスタイルという考え方を認めず、どのようなスタイルも肯定されます。しかし、自分の遊び方に無反省なだけですと、結局プレイスタイルで揉めないぐらいの小さなグループに分裂し、コミュニティが閉鎖的になります。
また飽きたら辞めたらいいじゃないって立場ですと、人材が定着せず、遊び方を教える立場の人間にとっても負担ですし、本人もどこへいっても落ち着けなくなります。

2008年のTRPG論考

さて一般論はとりあえず終わりにして、2008年のTRPG論考を振り返ってみましょう。

ggincとxenothの論争は何だったのか

ggincさんはhttp://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.htmlが代表作となる論者で、コスティキャン→馬場→高橋(gginc)と意志決定を中心とする理性的なTRPG観を発展させてきました。先ほどの論は2007年のものですが、本年ではRPGにおける〈プレイング〉の内実(2)――ウォーハンマーリプレイにおける高橋の〈意志決定〉プロセスを事例に - God & Golem, Inc.を発表しています。またGod & Golem, Inc.を発表し、上達についての考えも馬場論のころからアップデートしていっていますね。モダン・ポストモダンという区分ではかなりガチなモダニストでしょう。

xenothさんは論考で切り捨てられる楽しさの価値を拾い上げる”あるいは、無闇に自分の考えと離れた楽しさを切り捨てる論者を批判するという立場をつらぬく論者です。これはポストモダンのモダン批判と同じ構造を持っているように僕には思われます。ポストモダンからモダンを攻める方法は二つあって、一つはその理屈ではうまく説明できないものを挙げて、ある理屈が唯一であることを否定することです。イマジナリーボードの外 - xenothの日記では意志決定を中心とする価値観では”ノリ”という楽しさを正しく評価できないことを指摘しています。またもう一つはある理屈のもともとの根拠の不確かさを問うもので、ロールプレイは演技するという意味です - xenothの日記とか。

ただ、ポストモダン相対主義的な言説の弱いところは、ある理論の外の理論を示しても、その新しい理論もまた限定的な場面でしか使えないことです。ノリを中心とする価値観でもやはり意志決定という楽しさを評価できないことですね。両方大切にできれば問題ありませんが、できない場合には順序が大事になってくるでしょう。TRPGの本質論者 - xenothの日記で既に答えは提出されていますが、両方うまく満たせない場合には、どういう状況なのかよく把握して何が大事なのか選ぶ必要があります。

回転翼の転回

回転翼さんは昔、RPGコラム 『うがつもの』: 続・嘆きの碩学世代という記事で行き過ぎたTRPGのインテリ志向に苦言を呈していたのが印象的でした。ここではTRPG者はもっとアニメを見ろ!って主張してるんですよ。驚きですw しかし、最近は教養を重視する方向に立場を変えましたね。エンターテイメント重視から芸術重視に。

このポストモダンからモダンへ転回を説明するのはRPGコラム 『うがつもの』: 仕事と家庭と趣味の合間 〜トップ画面変えました〜です。
回転翼さんはTRPGの今を楽しむのではなく、10年単位で遊べるTRPGを探し始めたようです。楽しさ重視のポストモダニズムは長期的にみて不安定であるという弱点があります。10年後、自分がどんな環境でTRPGしているのか、思い浮かべられる人は滅多にいないでしょう。若い人は*2老いたらTRPGなんて辞めちゃえばいいと思うかもしれませんが、辞めて何をするのでしょう。せっかく10年間培ったTRPGの技術を簡単に捨ててしまって、新しい趣味を始めるのは大変です。10年後もまったりTRPGが楽しめるような環境づくりというのは、大切だと思います。

若い人に教養を要求するのではなく、自らの教養を生かして自分が長く楽しく遊べる環境づくり、それが回転翼さんの最近の方向性のようです。

F.E.A.R.モダニズム

TRPG系ブログの論考ではなく、いきなり企業の名前が出てきて驚くかもしれませんが、このあと出てくる鏡さんの立場を説明するためにはこれを言わなくてはいけません。

僕はTRPG冬の時代に一度TRPGから離れましたが、TRPG界に復帰して一番驚いたのはアリアンロッドの上級ルールブックでした。ゲームマスターの心得が懇切丁寧に書いてあり、TRPGのセッションに対してポジティブなイメージで臨むことができます。最近でるF.E.A.R.のルールブックにはこれらの文言は標準装備になっています。

F.E.A.R.はルールブックをうまく教科書化して、楽しいTRPGの遊び方を広く進めたんだと僕は解釈しています。エンターテイメントの業界で、消費者を教育するような作品が受け入れられたというのは非常にレアなことで、TRPGという分野の特殊性を感じさせますね。アニメやラノベで同じことをするのはかなり難しいでしょう。TRPGの場合はルールや世界のデザイナーとプレイヤーの間にゲームマスターという存在を挟みますが、ゲームマスターは、そもそも大変なことを自ら引き受けているわけで勉強熱心なんですね。その熱心なゲームマスターに適切な教材を提供するF.E.A.R.の姿勢が冬の時代の克服に大きく貢献したのではないでしょうか。

鏡のポストモダニズム

鏡さんは馬場論やFEARに批判的な立場を貫いていますね。

去年の夏から始まった”「自由」に遊ぶ”シリーズは、まとめ編に入っていてもうすこしで終わりそうです。ここで提出されている自由や管理などの概念はその言葉遣いも含めて再検討の余地があるように思えますが、TRPGの多様性は確保するべきだと思いますから、この議論も重要な側面を持っています。

ただし、ポストモダニズム的な”プレイングスタイルに良し悪しをつけない”というのはいきすぎるとあまりにヒドイ遊び方まで肯定されてしまう可能性があり、相対主義の罠にはまっているところもあるかと。TRPGを遊ぶ上で価値観はいろいろ考えられますが、動かせない部分もあるわけです。TRPGの形式、GM一人にPL複数人で遊ぶとか何時間で終わるのかとか、そういったことまで考慮するとプレイングスタイルに良し悪しをつけないという考え方が無限に拡張されることはないはずです。

まとめ

長文になって疲れてしまったので、説明不足なところは多々あると思いますが、モダンとポストモダンという立場からTRPG系ブログの論者の立場を整理してみました。

実際のところモダンvsポストモダンという対立は既に古いものとなり、その対立を超える試みが出てきつつあります。

来年もみなさんいろいろ考えて議論が深まっていくといいですね。それでは良いお年を!