TRPGにおける相互承認と自由

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に
よくTRPGはコミュニケーションの遊びであると言われますけど、これはどういう意味でしょうね。僕もなんとなくは分かるんですけど、意味をはっきりさせるためにはもう少し言葉を使って整理する必要があると思います。

この話はTRPGの遊びとかゲームとしての側面を離れて、プレイグループ内でのコミュニケーションのあり方に関する話です。

今回参考にした本は宮台真司著、14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君にです。中学生向けに書かれているわけで、非常に簡単に解説されていてよく分かります。ぜひ皆さんも読んでみてください。

プレイグループの構成員として必要なもの〜尊厳〜

人が社会の中で自由に行動を決定して生きていくためには、今までの自分の行動が承認されてきたという尊厳が必要です。僕は子供のころは自分に自信があってあまりこれを感じませんでしたが、大人になってからは自分が合っているのか間違っているのか、いい仕事をしているのかどうかなど、他人の評価がないとやはり安心できなくなりましたね。

自由な決断→他者からの承認→尊厳→自由な決断が上手く回ることが個人と他者の良い関係です。この関係を基点に個人は他者を大切にすることができ、大事な人を増やすことで人間は社会を作っています。

ところで、いくら承認が欲しいからとは言え、自分の決断を他者に承認されやすいものにしすぎると逆に尊厳がもてなくなります。受け入れられるのは他者の価値観にあっているからで自分が受け入れられているわけではなくなるからです。アダルトチルドレンという言葉がありますが、あれは親などの言うとおりの選択をしすぎることで、自分の決定に責任がもてなくなっている状態のことらしいです。

こうした立場に立ったときに、何者にも妨げられない、つまり”自由な”自分の意思を持つことが重要になります。

あまりこういうことを考えてきませんでしたが、TRPGはお粗末な自分の想像力を他者の前に開陳して承認してもらう遊びなわけですから、一緒にTRPGできる仲間がいるのは非常に幸せですね。大切にしようと思います。

自由

自由っていうのは、物事の原因を人間の意思とした上で、意思が妨げられない状態のことです。しかし、物事の原因を意思とするのは自明ではありません。極端な話では宇宙が始まって以来、物理的な法則によって何もかも決まっており、意思の介在する余地はないという立場もあるし、神様が全て決めているという立場もあるだろうし、もう少し身近な話では犯罪を犯したとき個人の意思でやったのか社会が犯人にやらせたのかよく問題になります。

人間には意思があるという立場が本当に良い立場なのか、疑ってみる必要があるというのは一理ありますね。

自由の条件

先ほど自由っていうのは意思が他の何かに妨げられない状態のことを言うといいました。それは具体的には以下の3つの条件となります。

  1. 選択肢が存在しそれを選ぶことが妨げられないこと
  2. 選択肢があることを知っていること
  3. 選択肢を選ぶ能力があるということ

1番目と2,3番目ではちょっと意味が異なっています。1番目は選択者が感じることで、2,3番目は第三者が感じることです。ここで自由というのは主観であるということを押さえておくのが大切です。1番は選択者の主観であり、2.3番は第三者の主観であるとことに注意。”自由な”という言葉がうさんくさく感じる時には”自由を感じる”という言葉に置き換えるとマイルドになります。

自由のあるなしはあくまで主観ではあるのですが、先ほど述べたように自由な決断、承認、尊厳のサイクルをまわすためには自由という概念が必要です。実は先日の記事にBrittyさんからコメントをもらったのですが、すごくよくまとまっています。あの記事から僕の言いたいことに先回りされてしまいました。Brittyさんすげー。

Britty:「自由が観念的領域にとどまらず現実化するのは、相互承認において、またそのときにのみ可能である」?/他我たちの世界あるいは間主観的世界の原理としての自由。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20081229/p1

(2009/01/22追記)僕はBrittyさんを引用してあんまり詳しく説明しませんでしたが、1,2,3の条件が満たされるというのは選択者も自由を感じているし、第三者も選択者が自由に選択をしてると推測できる状況です。この場合のみ自由を現実に存在するものとして取り扱うことができます。

実戦編

以上のことからいいプレイグループを作り、プレイグループの中でいい個人として生きるための条件が分かりました。

上級者があまり教えすぎてはいけないのは、初心者の自由な選択を奪うからです。でも、セッション後などにいい悪いは言ってあげたほうがいいですね。基本的には良かったところを褒めて、承認する必要がありますが、十分に承認して、お互いを尊重しあえる関係であれば特には苦言を呈するのもいいでしょう。

すげー当たり前な話になってしまいましたが、自由な決断、承認、尊厳のサイクルをまわすのが良いプレイグループを作るための基礎というのは押さえておいて良いと思います。

おまけ:便利な概念 行為功利主義と規則功利主義

おっと、ひとつ言い忘れたことがあります。14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君にで紹介されている行為功利主義と規則功利主義はさまざまな局面で使えるいい概念です。

行為功利主義と規則功利主義

両者は功利原理(利益=善)の対象が異なる。前者は行為が利益をもたらすか(「それをすれば利益があるか?」)を基準にし、後者は「規則」(「皆がそれに従えば利益があるか?」)を基準にする。

例えば、行為功利主義では「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは子供が助かるからかまわないとし、規則功利主義では「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけない、とする。
功利主義 - Wikipedia

この二つの概念は簡単に言えば、自分が既に深く承認されているプレイグループ内と、まだ自分が承認されているとは限らないプレイグループではやっていい行いが違うことを理屈づけるものです。

たとえば男性PLが女性PCをして声色を作ったりしてしゃべるというのは、自分が慣れ親しんだグループではギャグとして盛り上がり、楽しいので行為功利主義からは肯定されてますが、それを良い行為、素晴らしい行為として認めてしまうと、気持ち悪い思いをする方もでるので規則行為主義としては認められない。

いわゆる田中天プレイという、一見GMと他のPLが想定している世界観を壊して、おもしろい自分の世界に引き込んでしまう行為も、GMや他のPLがそれを受け止められることを知っていてやっているわけで、一般に空気を読まずにやるのは危険なわけです。

今、この場、この面子でやっていいことと、一般にやっていいこととは別だと言うことを覚えておくと頭の中が整理されていいと思います。