ストーリーメーカー 創作のための物語論 大塚英志

大塚英志民俗学畑で、物語の生成過程に造詣が深いです。彼は何冊かこの手の本を書いていて、僕も参考にしています。昔ロードス島戦記で同じ世界設定で同じ登場人物を使いながら、違う話を紡いでいったTRPGという形にいち早く注目した人物でもあります。

本書は物語作成のための技術書で、彼の今までの著書の中でも非常に分かりやすい、使いやすい一冊だと感じました。30個の質問に答えるうちに物語ができるという仕組みは、ゲームシナリオのドラマ作法*1にも似ていますが、こちらのほうがなぜその質問に答えなければならないのかの理屈がしっかりしていると思います。ゲームシナリオのドラマ作法の方は筆者のバックグラウンド(映画畑)から、見せたい絵を意識しているようにも思いますね。すこしアプローチが違います。

この本はhow to本なので、その価値は使いやすさなどにあると思いますが、本書で語られている大塚英志の思想が面白いので、ちょっとそちらに注目したいと思います。

創作と工学

玄兎 TRPG のシナリオってのは基本的に『おはなし』なんだな」
オリハタさん(仮) 「なるほど」
玄兎 「んでほら、『おはなし』とか、そういう創作的な、なんての、『芸術』ってさ、『工学』嫌うっしょ?」

ペテン師の戯言。からちょっと削って引用*2

僕が幼い頃TRPGにハマッタのはどこかに創作欲があったんだと思います。僕は結局創作を仕事にしませんでしたし、理系まっしぐらの道を歩みましたから一時期物語を全く読まない時期さえありました。こんな時期に意識はせずとも考えていたことは創作には特殊な才能がいるってことです。玄兎さんのところの雑談のように。物語とか創作にはもう消費者としてしか触れることはないんだろうと距離をとってしまっていました。

すこし時がたち、ふとした拍子でTRPGに復帰しましたが、いろいろ物を調べだすと物語創作にもhow toがあり、理詰めのアプローチが通用するのではないかという期待が持てました。

最近ではB.W.さんも同じ立場で考察を深めていて、お仲間な感じを覚えていますw*3

工学的なシナリオメイキングの弱点

さて、僕はこういった理詰めのアプローチをとることに最近まで疑問を覚えることはなかったのですが、nayutaさんの一言が胸に突き刺さりました。

なゆたさんのところを参考にTRPGなどに使いやすい物語の分類の構成を考える。ガルシア マルケスとかジャン=ミシェル アダンの物語論はしっかり読んでないけど明らかに使いにくいので、もっと使いやすい形のものが欲しい。
accelerator*4

やっぱり物語を使うという発想になるのが普通なのかな。人の中に眠る物語を引き出す話を書こう。
nayuta77*5

さて、一番単純な話、この方法だと「シナリオ」がマスターの世界観、それも理性的に考えられる範囲に固定されがちなんじゃないかな、と危惧するわけです。
nayuta77*6

誰でもできる物語 vs 私にしかできない物語

確かになゆたさんのおっしゃる通りで、シナリオがマスターの理性の範囲に収まってしまい、意外性にかけたり、お約束に陥ってしまうというのは、気をつけなきゃいけないところですね。しおしおと同意いたします。引用元のブログではそういう風に陥らないためのなゆたさんの実践についても書かれているのでぜひ参考になさってください。

なゆたさんが問題にしているのは大雑把にいえば、GMのシナリオどおりではPLらしさがやどらないということだと思います。ここからさらに話を広げます。工学的にシナリオを作るというのは、才能に頼らず、チェックシートを埋めるように作ることで、シナリオ作成の敷居を低くします。極端に言えば誰にでもシナリオが作れるようになる方法でしょう。このようにシナリオを理詰めで工学的につくった場合、GMらしさはやどるのでしょうか。また、TRPG界隈でよく言われる”物語はできるものであって作るものではない”という意見に、こうした工学的なシナリオメイキングは反論できるのでしょうか。これも同種の問題だと思われます。

ここでやっと話が本の紹介に戻ってくるのですが、この問題に対して大塚英志は一貫した態度をとります。

正直に言えば、ぼくは「小説を書く」という行為をコンピューターが代行することは、現時点でさえそう難しくない、と考えています。
(中略)
ぼくのこのような感覚はかつてコンピューターゲームの黎明期である1980年代半ば、今ではこの国のRPGの開拓者として知られる翻訳家の安田均が「神話製作機械」と形容したイメージと出会うことで鮮明になりました。
(中略)
しかし安田の感じた「神話製作機械」としてのコンピューターゲームという未来を、コンピューターゲームの歴史は必ずしもたどりませんでした。
(中略)
僕にとって「神話製作機械」として見出されたのは、プログラムではなく大学の時に齧った神話や民話の構造分析でした。
(中略)
「神話製作機械」は「書く」ことの特権を解体するという点では「作者の死」を宣言する思想にも思えるでしょうが、しかし、「機械」を介して書くこと先に人の「固有性」は現れうる、というのが僕の立場です。
大塚英志、ストーリーメイカーから引用

物語の箱と中身

なぜ、「機械」を介して書くこと先に人の「固有性」は現れうるのかは、本書を読まないと分かりづらいのですが、一言で言えば”物語に神話の構造を当てはまることで各エピソードの意味がはっきりし、当人が書きたいことが何なのか明らかになる”からです。

そろそろ例があったほうがいいですね。本書に書かれた例は物語を作る上で神話に沿った構造を当てはめていくいくことで本当のテーマが見える様子がまざまざと分かるんですが、TRPGの文脈ではないので挙げるのをやめましょう。

話がいきなりだいぶ具体的になってしまうのですが、ダブルクロスにおける日常とは何か?と考えてみましょうか。本書では神話とは”行って帰る物語”であると言っているのですが、日常から非日常的な世界に”行き”、非日常的な世界から日常的な世界に”帰る”のが神話の基本構造です。これは実はダブルクロスの構造そのものですねw。神話でなぜ帰ってくる必要があるのかというと、非日常的な世界を体験した上で日常の世界を見つめることで日常の世界の重要性や自分の立ち位置が理解できるからだと本書は語っています。つまりダブルクロスにおいて”日常”のシーンで演出されるべきなのは、PCが未だその価値に気づいていない大切なものであるはずです。そのように考えるとPLやGMがするちょっとした演出こそが、PLやGMの価値観を大きく反映したものになっていることが分かります。

ダブルクロスは非常に簡単な例でしたが、シナリオに”行って帰る物語”という構造を与え、行く意味や帰る意味を考えることで初めて語るべきもの、テーマが明らかになっているのがわかってもらえたでしょうか。

物語をただ漫然と語ることでは、”私”は見えてこず、構造を当てはめて解釈することで初めて”私”が現れる。これが僕の言いたいことです。型にはまった物語にこそ、その中身に語りたいことが現れるのではないでしょうか。