批評に対する嗜好の差

さて、この前筑波批評社への檄文――あるいは〈批評〉をめぐる私個人の立場の整理 - God & Golem, Inc.に言葉足らずなブクマをして、その後ggincさんに考えなしに自分の疑問をぶつけてしまいましたが、それをそのままほっとくのも無責任なのでもうすこし自分の考えを整理してみます。

まずは引用元の印象

まず、筑波批評社への檄文――あるいは〈批評〉をめぐる私個人の立場の整理 - God & Golem, Inc.の印象からいきましょうか。
この記事は大まかにまとめると、これは自分の思う良い批評の条件を提示し自分もそういう批評が書けたらいいなぁという希望を述べたものです。まずここに好感が持てました。若者が(まぁ僕もそんなに年じゃないですが)希望に燃えているところを見るのは気分がいいものです。応援したくなりますね。

良い批評へのこだわりも、ggincさんの批評好きさが伝わってきて気持ちのいいものです。よく”シューティングじゃなければゲームじゃない。”とかいう方もいますよね。まぁそれは端的にいって間違ってますけど、シューティングに対する並々ならぬ愛が伝わってきます。また、佐藤友哉が1000の小説とバッグベアードという批評小説の中で、文章を小説と片説(これは造語)に分けて、独自の小説論を展開していたのも思い出されました。多少偏っていたとしても、こういうこだわりはその文章の面白さを増す要因となります。

ここまで僕があの文章を好意的に読んだ理由を書きました。しかし、ブクマをみるにあんまり好意的に読めなかった方々もいるようで、なんでこんなに態度が違うのか、何がそんなに気に入らないのかいまいち理由が分からず考えてみました。

美術館で分かった友人と僕の鑑賞法の差

この一件で、思い出した出来事があります。僕が友達と二人で美術館に行ったとき、僕が一生懸命説明書きを読んだり音声ガイドを聞いていたのに対し、僕の友人はあまり聞いていないようでした。美術館から出て喫茶店に入り、感想を述べ合ったのですが、そのとき僕の感想は”あの絵って歴史的にはこういう価値があったんだね。知らなかった”のように説明書きなどに基づいたものでしたが、それに対し友人の感想は”あの絵は色が綺麗だった”とか直接的な自分の感性に基づいたものでした。友人が自分とは全然違うものの見方をしていることにあの時は驚いたものです。

僕は、自分の価値観(審美眼)にそこまでの自信はなく、自分で勝手にみるより、そのことばっかり深く考えてきた人の解説にまずは耳を傾けてみたほうが深い認識にたどりつけるのではないかという立場です。それに対し友人は、たぶんその美術品との出会いを一回だけのものにしたいのだと思います。だからそのときの自分の感情と感性とヴォキャブラリーだけを用いて、その鑑賞が他の人とは違う自分だけの体験になることを求めているのではないでしょうか。推測ですが、僕にもこういう気持ちはあります。

体系か自分の言葉か

もしかしたらこの二つの態度の違いが先ほどの批評をめぐる態度の差にも結びつくのかもしれません。引用元では、批評が一般に通用する性質を持つことが重要視されていますが、この性質は何かしらの学問の体系になっていることが多いのではないでしょうか。一般に通用することと学問の体系になっていることはイコールではないと思いますが、手っ取り早く一般に通用させるためには何かしら確立した体系から理論をもってくるのは便利です。こうした体系付けられた知識を好む層と、そうではなくて体験をなるべく等身大の自分の言葉で語ろうとする層、この二つの対立が批評をめぐる二つの態度に表れてきているのでは。

まとめ

批評や美術品の鑑賞法で、体系的なものの見方と個人的なものの見方を対置してみました。この二つの考え方の違いが何から発生するのか知りたいのですが、今回はそこまで論は進みませんでした。

まぁきょうのところはこんなところで。

関連記事

God & Golem, Inc.
God & Golem, Inc.
今日の記事はどっちかというとこれらの記事に関係するものなのかも。

8/27追記

ggincさんからトラックバックをもらう。
作品に対して事実と感想の部分を分けて、自分の能力の範囲内で事実に関する評価を行い、それに対して自分の経験などに基づいて付加価値をつける限りはそう外れた内容にならないだろうという話。

上の記事で僕はその二つを対立するものと置いていて、しかも”自分の能力の範囲内で事実に関する評価を行えばいい”部分が”書いてあることの丸写し”のように取れるので、それはいかんのではないかという示唆。

ggincさんの話は分かりやすいが、個人的にはちょっと煮え切らない部分がある。だいぶ本筋から離れるのでまぁ人を巻き込まず自分で考えて納得できればいいだけの話なんだけどw。

自分の能力の範囲内で事実に関する評価を行った結果に信頼が置けない場合どうするか。自分がその分野にあまりに門外漢な場合など、テキストの真偽を判定する材料が自分の中にすごく乏しい。

また真偽は置いておいても、そのテキストに納得できない場合もある。

そんなとき、とりあえず”テキストは正しく、僕には納得できないが、このテキストには他の人を納得させる何かが含まれているはず”というところから出発するのかどうかは学問や体系に対する信頼度によって左右されているのではないか。

とりあえずテキストを信用するのも素朴すぎる。でも分からないからってテキストを信頼しないのって立場をとるのは嫌なところ。

相手のバックグラウンドと自分のバックグラウンドのすり合わせていく能力が求められるんだろうけど、そういうコストを払ってまで相手の言うことを理解したいかどうかにはやっぱり経験なのかなぁ。