ラノベ定義論とジャンル意識

また間違えて26日の日記を先に書いてしまった。25日は雑感で埋めてしまおうw。

ラノベブロガー達の間で定義論が盛り上がってますね。でもその中身を根拠にした定義論は、議論するまえに”人それぞれ”って結論がでちゃいますよね。僕が一番共感を得たのは以下の文章です*1

定義は、たいがいの場合不要なんだけど、ジャンル意識と密接な関係があるので。
ライトノベルの定義話を収集中 - REV's blogから引用

これが一般文芸だよって言われて読むのなら、読者は自然主義的リアリズムとか、まだ言葉としてうまくいえない感情とかを期待する。SFだよって言われて読むならサイエンティフィックな技術のかっこよさとか、人類の未来像とかを期待する。ミステリだよって言われるならトリックを期待する。ラノベだよって言われるなら読みやすさやキャラクター描写や絵を期待する。

その期待する部分をクリアーした上で、作品の新しさっていうのは一つにはジャンルのお約束をやぶっていくことにあります。ミステリなのにSF的な要素があったり、一般文芸なのにキャラクター的な表現を持ち込んだりして、積極的に壁を破っていくわけです。

でも、例えばミステリにSFを持ち込んだ作品をいきなりSFとして読んでしまうと、そのSFのしょぼさに評価が下がってしまうことがあります。これはSFではないみたいな感じに言われてしまうのですね。何か具体的な作品を念頭においてない議論ですので机上の空論かもしれませんが。

だからラノベの定義論っていうのは、その作品の中身ではなく、その作品の表紙とか売出しかたの問題を議論しているわけですね。中身をしらない読者がその作品を何だと思って買うのかということが問題にされるべきかと。だからレーベルがどうだら出版社がどうたらって話になるわけですよ。聞いたことも無い出版社がほんとになんでもありの本を1冊だけだしたとき、その新しさの評価って難しいと思いますよ。要するに、この定義論がはっきりしていると、作品の新しさに対する評価が明確になるんだと思います。

桜庭一樹ラノベの枠でラノベ的でないものを目指し、一般文芸の枠でラノベ的に読めるものを書くので新しいという評価がされるのかと。定義論は評価の枠を決めるのです。
まぁREVさんのところのまとめを読んだだけだから、どこかに”なんで定義論をするのか”って話題も話しあわれていたのかもしれませんが、僕にはまずこの視点が書かれてないかなぁと思いましたので補足してみました。

*1:僕は1000の小説とバックベアードおよび、佐藤友哉高橋源一郎の対談を読んでるから、ジャンル意識を気にするのかも。