keyの作品で、姉妹の和解が登場し続けるのなんでだろ〜
さて、まだリトバス最後まで終わってないんですけど、昨日の日記(リトバスネタバレあり)で、疑問に思ったことがどうも解決できなくて、ちょっと立ち止まってしまいました。この記事自体は、ほとんどネタバレじゃないので、リトバスを未プレイな方もお付き合い願います。
僕はMoon、One、Kanon、Air、CLANNADと、keyとkeyに繋がる作品を遊んできました。これらの作品がなぜ泣きゲーとして機能したのかというと、話の構造にオタクの精神性に関わる部分があったからだと僕は思っています。例えばOneは他者との関係性を築けなければ成熟できないという男性版の遠野物語で、オタクの成熟欲求に深く関わる作品です。
今は決してそんなことはないのですが、僕らギャルゲフリークは、ギャルゲは持ち上げるくせに世界の中心で愛を叫ぶ系のお話を馬鹿にする傾向があったと思います。”話の泣かせる構造”自体は対して違いもないくせに、どうしてこんな意識が生じるのか…。世界の中心は他人事で、なぜギャルゲーは自分事なのか。ギャルゲーは単に泣きゲーを志向したものでなく、オタク層にチューニングされていると考えます。
その作品群の中で、今回僕が注目するのは”姉妹の和解”をテーマとしたものです。ちょっと思い出して思い当たるのは、Kanonの美坂香里、美坂栞シナリオやクラナド藤林杏、藤林椋のシナリオです。それとAirの神尾観鈴と神尾晴子も擬似親子ながら姉妹的な振る舞いをするとかどっかで読んだような気がするけど思い出せません。
僕の疑問は”姉妹の和解”っていうテーマはオタクのどの欲求にマッチしてるのか?というものです。”誤解から理解、そして和解”というテーマにするならCLANNADの父と息子の和解のほうが、はるかに男オタクにとって身近なテーマであると思うのです。なぜ、わざわざ姉妹というガジェットをもってくるのか…。要するに僕は、”姉妹の和解”っていうテーマをいまいち自分事に思えないんですよね。そこでみなさんはあれをどうやって自分事だと思っているのか聞きたいわけです。
こういうのは、ネットのどこかに書いてありそうなんですが、検索ワードが悪いのかいまいちこれだっていう文章が見つけられませんでした。何か知っている人がいたなら教えてプリーズ。