ファンタジーとかライトノベルの文体のお話

ggincさんのところを発端にラノベの文体に関する議論が巻き起こりました。
でも、どうも僕と同じ疑問をもってくれる方がいなかったようなので、自分で書いてみることにします。

僕は昨日、僕僕先生を読み終わったばかりです*1

この僕僕先生は第18回日本ファンタジーノベル大賞の受賞作なのですが、その荒俣宏の選評を引用してみます。

ハリー・ポッター」などのベストセラー系外国ファンタジーの後押しに頼らない自立した世界が展開されていることにも、大きな期待が持てた。もっとも、似ているところもある。軽くて、読後感がよくて、ちょっとダークな俗っぽさがある点だ。
その特徴は文体にも出ていた。設定された時代が現代から大きく離れていようと、主人公たちは現代日本の若者ことばを平気で語る。それでも不快にはならないのだ。何か、明治の言文一致運動時代に書かれた口語の自在さをも思い出させ、おもしろく感じた。
http://www.shinchosha.co.jp/fantasy/back/senpyou/2006/2006_A.html

その世界観独特の特徴ある文体を(一見)用いずに、SFやファンタジーを書いて、違和感がないのは、むしろすごいことなのではないだろうか。なぜファンタジーやSFが現代語で書かれうるのでしょう?

僕が推測するに、読者の興味が常に”今。ここ”にあるからではないでしょうか。ファンタジーやSFで、ほんとうに知りたいのは、時代や世界観を超えて通用する考えや感情が読みたいからなのではないでしょうか。

しかし、この視点を推し進めてしまうと、ファンタジーやSFが結局現代小説になってしまい、ファンタジーやSFである意味がなくなってしまいます。

一方現代に通用するものを書きたいがために現代語で書き、一方で現代的にしすぎるとファンタジーである意味がなくなってしまう。この綱引きの中で、語の選択、文体の選択のバランスが生じるのだと思います。ホロの一人称がわっちなのは、現代性と世界観(とさらに言えば萌えられるかw)のバランスの上で成立しているのだと思いますね。

ファンタジーやSFの文体は世界観の演出という側面が大きいが思います。狼と香辛料はファンタジーに経済という現実的な視点を持ち込んだことが評価されているわけですが、回を追うごとに”ホロとロレンス”の話になり、世界観の比重はそう高くないような気がしますね。世界観の比重が高くないのだから、文体をファンタジーらしくする必要もまた薄い。こういったところではないでしょうか。

なんか書いていて、自分でもすっきりしない部分はあるものの、とりあえず今の僕の考えはこんなものでしょう。