ゲーム性と物語性ってそこまで相反するかな

この前の記事(桝田省治に学ぶセッションデザイン - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む)はけっこう考えて書いた記事なんですけど、この記事はやる気のないただの感想なんですよ。

http://iwatam-server.dyndns.org/game/narikiri/narikiri/index.htmlは著者の好き嫌いはともかく、よくまとまっていて非常に参考になりますね。
この3節http://iwatam-server.dyndns.org/game/narikiri/narikiri/x53.htmlで何を重視するスタイルなのか分類しているのもおもしろかったです。僕はきっとゲーマーかつ作家タイプなんだけどちょっと役者にあこがれるって感じのところに位置してますね。

でもこの最後の部分。

残念ながら、毛色の違うすべての目的を同時に満たすことはほとんど不可能だ。だからこうした会では必ず「主目的」を置くわけである。

実質的にはそうかもしれないんですけど、うまくなんとかならないもんでしょうかね。


僕は最近桝田省治にはまっているのでまた引用してきます。

 見方を変えればL3のシナリオはたとえ全く存在しなくてもとりあえずゲームとしては成立するという程度のものです。
 商品としてはおそらく成立しませんけれど。
 ローグがトルネコというキャラなしでは、あんなには話題にならなかったであろうというのと同じ意味で。
桝田省治のシナリオ作法から引用)

ゲームの屋台骨はゲーム部分の戦略性のおもしろさだとは思うのですけど、キャラクターや物語の部分もちゃんと作らないと、総合的な出来としてはいまいちだとは思います。ぷよぷよはおもしろいですけど、あれがぷよって生物(?)でかわいいアルルナジャが召還していることは大事ですよね。非常にとっつきやすいです。東方がスペルカードシステムなのはもちろんシューティングゲームとしての制約ですけど、世界観とよくあっています。

どっちが大事だっていってもめるより、どうやったらうまく同じ方向を向かせられるのかを考えたいものだと最近は思ってます。