ゲーム性の変化

動機

今日はゲームにおけるゲーム性のお話。


僕はなんでこんなことを書くのでしょう。そもそも僕がTRPGに復帰した理由は、ひぐらしのなく頃にのゲーム性に期待と不満があり、TRPG的な手法で、新しいゲームが生まれないか考えたいというところにありました*1。僕が一貫してこの疑問をもっています。

コンピューターゲームの多様なゲーム性

最近東浩紀がノベルゲームにおけるゲーム性の変化などを語っています*2。僕はRPGばっかりやるので自ずと題材が限定されるのですが、FFにしろドラクエにしろ、最近のもの戦闘力の強さと戦術の上手さを競う”やりこみ要素”が常に追加され、ストーリ上のラスボスではなく、やりこんだ末に勝つことができる裏ボスに勝つことをもってゲームをクリアーとみなす意識があります。コンピュータRPG(CRPG)ではもちろんストーリー性も追い求められていますが…僕がこれはいい話だったと思いだすのはFF9と10ぐらいです*3。あとは戦闘の面白さやミニゲームに重点が置かれているように思います。いろいろ事情はあるのでしょうかFF12なんて特にそうですね*4。これはもちろんコンピュータの処理能力が上昇し、派手なグラフィックや音楽を手軽に使えることと無関係ではないと思います。


それとは逆に、ノベルゲームはFFシリーズなどが辿ってきた、どんどんグラフィックがきれいになり、登場人物が台詞をしゃべるようになるといった、コンピューターの処理速度に応じた変化とは逆に、むしろ非常に原始的な処理のまま、内容や話の構造を進化させてきたという特徴があります。ギャルゲーともエロゲーとも言われるノベルゲームでは攻略って概念は薄くほとんどサウンドノベルです。しかしそれをサウンドノベルじゃなく選択肢を選ぶ形のアドヴェンチャーゲームとして提供することには意味があります。それは簡単にまとめれば主人公に感情移入しやすいということでしょう。


中でもひぐらしのなく頃にのゲーム性はかなり特殊なものです。”ひぐらしのなく頃に”の新しい点はゲームの外にゲームを持ってきたところにあります。前者のゲームはすでにゲームではないのです。”ひぐらしのなく頃に”は解答のないサウンドノベルを販売し、その回答を探すというゲームをインターネット上で展開しました。それは解答が読者に任されるような小説をファンがあれこれ議論することに近い行為でしたが、”ひぐらしのなく頃に”は、そこにゲーム性を持ってこようという試みです。


この新しいゲームは創造的な遊びですし、大変期待が持てます。しかし一方、このゲームはどういうルールで遊べばいいのか…非常にあいまいだと思います。なんとかうまくルールを規定できないものですかね…。まぁこの話は僕がずっと考えていてなかなか答えの出ない問題です。今回もいまいちわからんというところで終わりましょう。
ただ、あんまりよく考えていないのですが、アイデアだけはあります。

ひぐらしのなく頃にをPBWで人狼のようにやる!
むちゃくちゃ節操のない企画です…。

これはTRPG的なモデルでいうと、

システムデザイナー 竜騎士07
GM ライターの卵などアルバイト
PL 一般の人

という対応を考えてください。

  • PLは雛見沢に住む住民をPCとします。
  • GMから状況説明があり、PLはメールや掲示板で状況に対するPCの行動を送信します。
    • このときPL同士はメールの内容は見せあわないことにします。GMから要望があれば各PCとGM間で処理します。
  • GMは原作者の決めたルールに従いストーリを進めていきます。そしてGMはPCの行動がもたらした結果をPCの分だけ送信します。
    • つまりPCからすると他人の行動は一切わからないという状況です。
  • 惨劇やらなんやらがおきて、PLは自PCが死亡後に他の人のストーリーを読むことができます。または最後まで生き残った人だけ全部のストーリが読めることにしたほうがおもしろいだろうか…。
  • PLの目的は原作者の決めたルールを当てることとします。1年ぐらいたったらルールを種明かしして、その回を終わるってのはいかがだろうか。

こんなのおもしろそうですけど、誰かやらないかなぁ。
この長所は”論考とかはちょっと…”という一般の人も雛見沢の住人になりきって行動するというタイプなら参加可能であるという点。また、オリジナルのひぐらしのなく頃にのゲーム性が失われていないところです。
そして短所はGM(というかライターの卵)がPL4−5人につき一人必要で、これはよくわかりませんが現実的ではないかもしれません。

CRPGとTRPG

先ほどはCRPGの中で、ノベルゲームとFFやドラクエなどの大作RPGを比較しましたが、今度はCRPGとTRPGを比較してみます。このへんはAの魔法陣のルールブック*5に書かれていることを土台としていますので、興味がある方は読んでみてください。

PCの行動宣言 ←←←→→→ コンピューターのリアクション
  ↑デジタル 安定  
PCの行動宣言 ←←←→→→ GMのリアクション
  ↑アナログ 創造性  

以上のように処理が進むときコンピュータの受け付けられる処理はコンピューターがあらかじめ想定していることのみです。よって完全に自由な選択が取れるわけではなく相手が提示する選択肢の中から有効そうなのを選ぶというスタンスになります。一方”人(GM)”がリアクションを考える場合、非常に幅広い行動宣言を処理することができます。僕はTRPG良さはそういったアナログさにあると思います。ただしこのアナログさは裁定の揺れを生み、ゲームの公平性を損なう可能性が比較的高いと考えられます。

TRPGの中のゲーム性多様性

ところで、TRPGの中においても、ゲーム性が多様化してきたことが指摘されていると思います。戦略シミュレーションのような、選択肢の数は限られているがかなり複雑でその中で最良手を選ぶような遊び方はTRPGにはあまりむかなそうなので今回は除外するとしますね。僕は実はF.E.A.R.の(もっといえばアリアンロッドダブルクロスの)戦闘システムはデジタル的でGMとPL間で生まれる裁定の揺れを少なくしているところが実は不満です。とはいえ、TRPGの場合、結果に対する予想がCRPGより立ち安い部分もあるので、一概に戦略シミュレーションはCRPG、アナログ処理はTRPGと切りわけるのも早計だと思います。


前回の記事のコメントで、問題解決の巧みさをメインに据えたプレイングと人間関係とその変化を重視したプレイングとの連続性を示していきたいと書きました。両者とも問題解決を行うというのが共通点ながら、どのように行うのかという点で相違があります。
もっと詳しく言えば、前者がGMが与えた問題に対して回答の巧みさに楽しみを見出す楽しみ方である一方、後者はGMの与えた問題の大きさそのものを自覚的に変えるという楽しみ方です。
具体的にはいつもの勇者ー姫ードラゴンのシナリオでもどうドラゴンを倒すのかではなく、ドラゴンを倒すことが勇者にとってどういう意味なのか、それを考えることに楽しみを見出すような遊び方がされるようになったのかと。たとえ話をもうひとつします。前者の遊び方がどうやったらうまくプールで泳げるかを問題にしているとしたら、後者の遊び方はプールで泳ぐ際、どうやって舞台をオリンピックにするかということを問題にしているのではないかと。オリンピックにしなくてもライバルとの勝負にしてみたり、好きな女の子に見ててもらうことにして、プールで泳ぐという行為は同じだけどもその意味付けを変えていくというのが後者の遊び方なんだと思います。

まとめ

このように遊び方が多様になるのはいいのですが、遊び方への趣向が違う人たちが単にバラバラになり、お互い話が通じなくなるっていうのも面白くありません。事故が起きない様に住み分けるのが正しいというのを認める一方、お互いの良さを知る機会ができるといいと思いますね。良い子な結論をだしてしまいました…。