空の境界(続き)

http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20040622
一応昨日の続きです。


空の境界とか月姫とか奈須きのこの作品を世界観で褒める人は多いけど、どーもぼくはそこに違和感を感じる。


まぁ確かに世界観はおもしろいとは思うんだけど、いきなりそれを褒めるってのは重大なことを見落としてないか?
それはルパン三世を銃とかのディテールが細かいから面白いといっているのと同じように僕は聞こえる。


そうじゃないでしょ。やっぱり人物とかストーリーとかがあった上で、それを支える世界観の話になるべきじゃないか。


どうしてType Moon関連の掲示版ではディテールばっかり話しあわれるんだろうなぁ。まぁそういう楽しみかたもあると思うけど、奈須きのこの場合はけっこうオリジナルで面白いと思ったことを創作してるんじゃないかと思うので、最終的には設定は作者の頭の中で適当に変えることができる。元ネタはあったとしてもそれに忠実にすると奈須きのこが宣言したわけではないし、魔術とかに矛盾があっちゃまずいのかっていうとそうでもないと思うし、そんな真剣に話あってもしょうがないんじゃないかと思うなぁ。
確かに不思議な現象を不思議のままで終わらせずなんとなく説明力のある説明をするのは奈須きのこのおもしろいところだと思う。
それを追体験しようとしているのか?単純に奈須ワールドマニアになりたいのか?
どーも僕にはよくわからない。
もちろん人物やストーリーまであわせたものをみんなが世界観と読んでいるならとくに問題はないと思うんだけど、そのわりにはあんまり人物の性格とか行動についての深い洞察は見当たらない気がする。
ってなんか不満を書いただけだな…、でもみんなそんなに好きならどうして、もうすこし頑張ったことを言わないのか?不思議な気がする。


まぁこういうのをもう少し上から見つめるとつまるところ世界観っていうのは偽史ってことになるのだろうか。僕は偽史をもっともらしくすることには興味はない。なんでかというと世界観やら偽史やらをもっともらしく、つまり現実っぽくすることっていうのは今の現実からの完全なる逃げに他ならないんじゃないか。別に逃げてもいいんだけど、そんな逃げてる自分を見据えるのは逃げないことよりつらいと思う。じゃぁ見据えなきゃいいじゃんとか言い出すと、どんどん思考が単純化動物化しちゃうような気がする。豚の快楽なんてまっぴらごめんと言える立場を守りたい。
……また話がそれてしまった。


僕は旧来の伝奇の伝統なんてしらないし、今読んだものを今ある知識で判断したい。昨日は幹也に感情移入できない部分があると述べたが、(笠井潔によるとそういうのはちょっと価値観が古いらしいが)それはなんなんだろうなぁ。


上で人物あっての世界観とか僕は述べたが、幹也以外の人物の気持ちのほうがまだ分かるような気がする。例えば式は殺人衝動がある自分を嫌っているふうにも読めると思うんだが、こういうのって恋愛によくあることでしょ。どーも自分は汚くて相手につりあわないと考えてしまう。繰り返し表現する自分という実感のなさなんかもたまに感じることがある。そんなとき知識よりも感覚を重視したくなったりするのは当然のことだろう。魔術師なんて人種は学者という人種にそっくりだ。実際弱いと思う。


このような人物一人一人の生き方への共感がむしろ世界観なんかよりもこの小説のいいところだと思う。


それで先ほどの疑問に戻るが、幹也は異質だ。漫画とか小説とか歌では確かによく出てくる「君はそのままでいい」まぁ確かに「君はそのままでいい」とは思うんだけど「僕はそのままでいい」かどうかは僕にとっては悩みどころだ。


超越なんてくだらないなんていうのは簡単だけど超越をめざさない。そのままでいいことを納得するなんてかなり難しいなぁ。


むしろぼくにとっての”奇”は幹也である。