逆転の発想

僕はAによるA批判という形が好きだ。


こんなにもCLANNADのことを書くのは
オタクによるオタク批判だからに他ならない。
(少なくても表面上はなっていると思う……)


清涼院流水達(あとは西尾維新かな)はちょっと弱いかもしれないけど
ミステリによるミステリ批判になっている気がする。


機動戦艦ナデシコ
アニメによるアニメ批判と見れる、


結局CLANNADの話になってしまうのだけど、
徹底的にオタクになった結果、オタクから抜け出さなきゃいけないことに気づくのではないだろうか。
そういう意味ではギャルゲーこそ最高のビルドゥングスロマンなんじゃないかと思う。


あと昨日の続き。


オタクがギャルゲーにのめりこむのは駄目なものを愛するということから生じる気もする。


よく恋愛において「私のどこが好きなの?」とか「僕のどこが好かれているんだろう」と疑問に思うことがあると思う。
このとき、例えば「かっこいいところ」な場合は、かっこよくない自分は好かれないことになる。相手に自分の固有性を好きになって欲しいと思っているんだけど、そのような意思を伝えるためには「あなたがあなたなところが好き」といったような抽象的な逃げ台詞しか答えようがない。どーもこういう言い方はうそ臭い。
相手が相手の固有性を好きになって欲しいということが分かっているから、
気に入る答え方をしたいと思っているだけのように思える。

結局人は自分の固有性を好きになって欲しいと思っているんだけど、他人の固有性を好きになることはできないんじゃないか。

あと、自分のいいところが好かれている場合には、それがなかった場合を考えると、自分がもっている固有の何かが、好かれているわけでないと気づいてしまうが、相手が駄目人間なのにそれでも好きっていうのは逆にその好きってことを真実たらしめると思う。

そうするとオタクは自分の駄目なところを自分で愛することによって、真に自分が自分を好きなことを真実たらしめることができる。自分は自分の固有性を愛することができるし、この二つによりオタクは真実の愛に生きることができるんだと思う。