哲学の価値

昨日の続きで、最近考えたことです。なんか重いタイトルですが、こんなことも議題にあがりました。

フランス現代思想の傾向に関するKさんとBさんのやり取りから出発します。

Kさん「テキストの意味が読み手とは独立に存在せず、文化や時代が違う読み手が同じテキストを読んだら違う解釈を見出すということにフランス現代思想は肯定的な意味を見出している」

Bさん「文学では読者によって意味が変わるのは面白いが、学問ではテキストは一意的に読まれることを目指すべき」

Bさんの立場からは。一意的に読めないテキストにどんな学問的価値があるの?という疑問が生じます。一意的に読めないことを許すなら極論すればどんなことでも結論可能で、話し合う価値なんてないようにも思えます。

僕は、フランス現代思想はよく分からないし、各論は大きな目標を見えにくくすることもあるので、まずは一般的な哲学の価値を考えました。フランス現代思想も哲学である以上、話は難解で細かくなってようが、大雑把には哲学であるはずです。

僕は大雑把に二つの価値があると思います。

公的価値:言葉や概念の取り扱いに習熟させ人生を豊かにするもの
私的価値:趣味やゲームのように、役にはたたないが楽しいもの

2つめの私的価値では、遊びという側面を強調しました。あんまりおおっぴらに言うと怒られるんですが、学者は自分の研究分野に社会的な意義とは別に、個人的な面白みを感じているはずで、それを表したのが2つめの意見なわけです。単に知と戯れることは楽しい、特に意味はないというのも人に迷惑をかけない限りで許されるはず。

ただ、哲学者じゃない人にとって重要なのは公的価値ですよね。人が生きる中でなぜ哲学が重要なのかに関しては、僕は以下のように考えます。人間は概念を操る生物ですが、概念の取り扱いにうまくなるべきです。そうでなければ家族間、友人間、共同体間、国家間、世代間のコミュニケーションが難しくなり、ひいては(個としてではなく、種としてかもしれませんが、)生き辛くなるはず。

形而上学ってあるじゃないですか。プラトンの”イデア”とかカントの”物自体”とか。ああいうものって我々が直に見たり触ったりはできません。そんな空想的なものを考えて何の意味があるのかというと、この概念がないと、形而下の我々が見たり触ったりできるものを、誰から見ても同じな絶対的なもののように思ってしがいがちです。形而下のものは人によって感じ方、見え方が違うものなのに、同じように見えていると信じると取り扱いを誤る可能性があるわけです。簡単にまとめると、形而上学は形而上のものと形而下のものをうまく区別することで形而下のものの取り扱いがうまくなる作法なんですね。

理論と現実の関係を考えるのも面白いです。ガリレオは自然の書物は数学の言語によって書かれているといいました。物理はかなりの精度で数式で予想可能な分野です。最近僕は数式と現実が違う例に出会いました。現実と理論が違うという問題に出会ったとき、初めて数式は経験から導かれたもので現実とは違う可能性があることに驚けるわけですね。ここで初めてカントの独断のまどろみとかいう単語をを面白く感じました。

僕はこのようにカントを面白いと思いましたが、一方、理論と現実がそもそも大きくかけ離れている場合には、理論が不十分なことは自明ですから、カントの発言にもまぁ当然じゃんって感じであんまり驚けないんですよね。こう考えると、自分の中にある程度問題意識がなければ哲学なんで響かないんで現代思想なんてどーでも良いって態度でも特に問題ないとも言えるかもしれません。もともと価値というのは人それぞれのものですから、やりたい人だけ、問題意識がある人だけが考えれば良いって考えもできます。

人が生きる中でなぜ哲学が重要なのかに関して、もう一つ書く予定だったんですが、うまく考えがまとまらないので、また今度に。