都条例→コミュニタリアニズムとリベラリズム

自分用のメモです。

都条例での東浩紀の態度に興味を持つ。条例の中身は関係なくて社会の進む方向性に興味があるように見える。セキュリティと自由では常にセキュリティが勝つがセキュリティを勝たせた上でどうやって幸せになるのという発想か。

一端宮台に戻る。宮台は5月はいろいろ発言しているが12月のものにはあまり何も言っていないような。限定効果説の意味には注意が必要。別にメディアが悪くないとは言ってない。でもメディア規制より穏便な手段を取らずにいきなりメディア規制は弊害が大きくて悪手という話。

また猥褻の定義も興味深い。猥褻とは望まれない時と場合に性的なものが現れることを言う。猥褻物というものがあるのではなくて、時と場所にあってないという問題。そうすると本屋にエロ本を買いにいく人にとってはエロ本はわいせつ物ではない。エロ本を買いにいかない人にとっては猥褻物。本屋は公共の場所だろうか。店主の趣向よりも猥褻だと感じる人の気持ちが優先されるか?棚分けしなくても、コンビニの酒マークみたいに18禁マークの看板をつけてもゾーニングはできる。それならば店側の負担は減るか。

宮台の発言を追っているとサンデルに到達。都条例に応用できるような問題はないものかと探すと、同性婚の問題が比較的近い。結婚は個人の自己決定にまかせて政府は関与しないという立場をつらぬくためには異性間の結婚にも政府は関与してはならない。それをやめるためには社会を相当大きく変更しなければならず、現実的に難しい。政府は個人が決定すべき問題についても中立ではいられない。そうするとどういう風に関わるべきかを決めなければならなくなる。それは多様な価値観の中での議論した末の共有善に基づくというのがコミュニタリアニズム自由至上主義リバタリアニズム、自由を大事にしながら弱者に対して配慮するのがリベラリズム

出版はコミュニタリアニズムが有効な問題か。すでにクールジャパンで売り出し中の漫画の正義を政府が保証しなければならない。このあたりは大塚英志の指摘がするどかった。政府から金をもらって漫画を書くようでは政府に都合の悪い漫画はかけなくなる。金はもらうが独立性は保つというのは難。漫画の出版は既に政府が関わる問題となってしまっている。輸出できるものとできないものの品質管理か。

実はTRPGでは共同体の共有善を損なわない範囲で自由にやるという考え方には賛成。しかし都条例に関してはリバタリアンになってしまう。自分に一貫性がない。まぁたぶん誰でも自分が好きなものが規制される時にはリバタリアンになり。自分が嫌いなものを規制する時にはコミュニタリアニズムになる。リベラリズムを持ち出すと誰が弱者なのかという問題が生じて話が複雑になる。エロゲで抜くしか無い独身男が弱者なのか、子育てが大変すぎるし、小難しい議論に参戦できない母親が弱者なのか。自己決定権を完全に奪われている子供は明らかに弱者な気がするが、どうすることが弱者救済なのかで揉める。

ただコミュニタリアニズムをとったとしても都条例あるいは二次元を規制する児童ポルノ法には反対できる。共同体の共有善とは実際の児童の健全育成に他ならない。正義感じゃなくて実際の正義は何なのか議論し、敵味方の壁なく共通の正義に向かって進むという方向性がある。しかしこれではさんざん罵倒し合った規制派と仲良くする方向になる。それには断固反対と感情論がでて内輪もめしているというのが昨今のtwitterの現状か。

とはいえ、以上の考察は問題の背景であって、条例が決定されるプロセスのうさんくささと条例の文言の意味不明さとは全く別の問題ではある。


以上は勉強したこと。以下は感想。

個人的にはコミュニタリアニズムが説得力を持って欲しくない。そんな社会は息苦しい。退廃と堕落も人間には必要なのではあるまいか。でもリバタリアニズムはあるいみ自由を享受するもののわがままであり説得力に欠ける。リベラリズムでなんとかしたいが、弱者だらけで誰の権利を守るべきかよくわからない。結局個人的には嫌いなコミュニタリアニズムをとるしかないのか。