蝕手ものについての見解

なんか雑談でTRPG仲間のぶっちーさんが蝕手というジャンルにいまいち共感できないという話がでたんですが、そうなりますと蝕手スキーの私として一席設けざるを得ません。

蝕手というのは男根の代替物であるというところに異論がある方はいないと思いますが、なぜ代替物が必要なのかというのがポイントになってくるのかと。

うろ覚えですみませんが、昔読んだ上野千鶴子の本に書いてあったところによるとAVでは男性の視線のみがあり、男優の姿そのものが映るものが少なくなっているという話があります。まぁこの話自体が統計的にどうよって疑問を挟む余地はあると思いますが、感覚的には同意できるお話です。AVには男が映っている必要はないと思いませんか。

これは上野千鶴子の論によると”犯す主体の喪失”とまとめられるそうでして、女性を傷つける性としての男性をなるべく画面の中に登場させたくないという、ある意味自分勝手な、ある意味優しい考えに基づくものとされています。

さて、蝕手の話に帰ってきますが、蝕手も”犯す主体の喪失”の一種なんではないかなぁというのが僕の意見です。

エロゲをやっている人なんてある意味心優しい人が多いんだと思いますが、そういう人は乱暴な犯す側の主体に感情移入できないんじゃないでしょうかね。そこで非人格的存在である蝕手を持ってきて感情移入できないという感覚や罪悪感を減らしているんだと思います。

そういう意味では蝕手と和姦という謎のカップリングも理解できまして、犯す主体になりたくないということは相手を傷つけたくないという心意気ですので、和姦と親和性があるわけです。

また、先日レビューした侵蝕シリーズにあるように、グロテスクなものを受け入れられる女性に懐の深さとある種の母性をみるということもあるでしょう。


蝕手ものというジャンルはエロゲとしてインパクトのあるエロいシーン、激しいシーンを作りたいという欲求と女の子を傷つける主体になりたくないという優しさと責任回避から生まれたものであるというのが僕の見解です。