人格的/システム的

紙魚砂さんの返信への再返信。

相変わらず好きやねえって感じですが
いろいろ感想:(・_・) : 紙魚砂日記

まさにそうですね〜。僕もどうかと思います。このへんもうTRPG論としての興味じゃなくなってきてますし、自重したほうが良いのですが、ちょっとおもしろい異論もあるので言うだけ言ってみます。

鏡さんの論でも、ルールブックに書いてあることからは自由になることを志向しないのに、GMの意図からばっかり自由になることを求めていて、ルルブの制限であろうとGMがした制限だろうとPCからすれば同等なはず
自由という概念のやっかいさ - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む

このあたりちょっと筆が滑っているのですが、消極的自由において何から自由になるのか恣意性があるというのは一般的名な話でその話と組み合わせるためにちょっと強引な言い方になってますね。

(合議制での)政治的関係性というのは

  • 法(ルール)が絶対である
  • GMはPLと同等の権利しか持たない(まあ、責任が重い分比較的権利が強くはなるが)

という認識になるので、ルールによる制約と、GMからの制約はまったく別物と認識される(PLにとって)と思います。

紙魚砂さんの言うとおりGMの課す制限とルルブの課す制限が違うように感じられることもあるでしょう。それは同意します。なにしろそういうエントリ書こうとしてたくらいです。

で、そういう意見もある上で僕が問題にしたいのは権力を人格的に見るか単なるシステムとしてみるかの違いです。

消極的自由では”人格的な権力”を慎重に排除しようとしますが、”システム的な権力”は素通しにしやすい傾向にあると思われます。しかし権力を人格的にみるかシステム的にみるかというのは受け手の恣意であるので消極的自由は一貫した論にならないということが問題です。

現代思想的な興味からすると、”システム的な権力”とどういう距離をとるのかってことのほうが重いのにリバタリアニズムはそのあたりに全然役に立たないって話にもつながります。

うーむ全くTRPGの話にならねぇw。