リトバス日記8日目

ネタバレですよ。気をつけて!主に棗鈴シナリオ。リフレインまで(意味がわからん人はめくらないのがよろしかろう)。
リトバス日記1日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記2日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記3日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記4日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記5日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記6日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
リトバス日記7日目 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む


さて、これは一つのバッドエンドであるわけですね…。
未来のためには成長しなきゃいけないっていうのと、でも今がつらいという、未来と今の対立。
そしてもう一つ、鈴が努力しなきゃいけなくて、自分は最低限のフォローすらできないという無力感。
このあたりがテーマですね。

自分が困っているときに、同じ問題で困っている人を助けるのがギャルゲーの精神の本質だ!って昔述べましたが*1。その精神論の次の段階として、自助努力をどうサポートするのかっていうのは確かに問題ですね。しょせん自分が子供なのに、友人の成熟を手助けすることはできないのか。今回は成熟拒否という方向に一生懸命抵抗してみせ…そして、結局抵抗しきれず、無力感にさいなまれます。

僕はリトバスをやっていて、ノベルゲームってこんなにも残酷だったんだ…と認識を改めました。本シナリオの最後で、逃げるか戦うかしか選べないなんて…。こんな手痛い失敗をしたあとじゃもう逃げるなんて選べない。でもまだ戦う準備なんてできてない。この二者択一に見せかけてじつは選択の余地はない。しかし形式上は自分が選んだことになっている。残酷な展開です。結局選択の準備ができているときなんて来ないんでしょうね。それを端的に表している選択肢かと思いました。