国家の品格 藤原正彦

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

この本は数か月に渡ってベストセラーになっていて気になっていたが、あまりに右なタイトルで少し敬遠していた。あまつさえこんなタイトルの本がベストセラーでいいものなのか、疑問ですらあった。
しかし家族の誰かが居間に放置していたので、手に取ってみると著者は数学者の藤原正彦ではないか。著者いつも、日本の美とか、言葉の美しさを取り上げている。そうか、なんだその方向性の本であって右の本じゃないのねってことで本格的に読んでみる。


この本の主張を一言でいうと「アメリカ的な論理だけでは、人は幸せになれない。論理の出発点を日本的な美や情緒にしましょう」というものだ。


数学者はある意味論理の専門家であるが、その彼が徹底的に論理の不十分さを説く。論理って何なのかあやふやな人も多いかもしれないが良心的な解説書なら必ず論理的にことと正いことは必ずしも一致しないことは述べられていて、完全でないって話はよく聞く話だ。
論理っていってもいろんなレベルのものがあると思うが、基本的には人間が理解しやすい形式を整えることが論理だと僕は思っている*1。具体的にはたとえばイントロ→本論→結論という形式でかかれていたり一つの段落で一つのことを主張していたり、結論が先、理由があとにきていたりと(これは使いどころによるんだけど)、単にそういった文章の形式ことが整うだけで、圧倒的に読みやすくなる。
しかし、これは形式上の話で実際の内容がよくかんがえられてるのかやそれが正しいのか間違っているのかなんてことは無関係である。
しかし、それでも論理的に伝えることはすごく重要だ。主張する内容を分かりやすく伝えないことには合ってる間違ってるの議論が始まらない。深遠かもしれないけど何言ってるんだか全然わからないものと、単純で分かりやすいもの必ず分かりやすいものが重視されるだろう。意思決定が複数人でなされる際は特に。
論理っていうのは形式であって内容ではない。結論が正しいか間違っているかにはひとまず関係ない。僕も理系の人間なんで命題論理とか述語論理*2とかを一度は学んでいるので著者が論理をこのように考えていると想像できる、基本的にはそうかもしれないが、著者が論理を否定する仕方には少し軽率で、例えば以下のよう。

論理には出発点が必要
論理が破綻する三番目の理由は、「論理に出発点が必要」ということです。
論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。このようなAからZまでの論理鎖を通って、出発点Aから結論Zに行く。
どころがこの出発点Aを考えてみると、AからBに向かって論理という矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印は一つもありません。出発点だから当たり前です。
すなわち、このAは論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そしてその仮説を選ぶのは論理ではなく主にそれを選ぶ人の情緒なのです。

このときAが常に仮説というのは、正確にはそうかもしれないけど、このAの確からしさを議論しないのは乱暴な意見だと思う。Aの検証としてファクトが強いかどうかとか(Aは多分データなんだろうけどそのデータが正しいかどうか)、議論するのが、難しいところでみんな困るところ。それをただ仮説だから正解でないと言い切ってしまうのは短絡的だろう。ただ、それは言ってもこの検証はけっこう難しくて結局機能しないので著者は省略しているんだと好意的に解釈するのだけど、こういう説明のされ方だとあんまりだ。あと、細かいつっこみだけど、僕の実感では情緒と直感で選ばれるのは実は結論Zで論理というのはそれを人に納得させるためにZ→Y→Xと逆順に構築されるような気がする。ただ、そうであっても結論から恣意的なAが選ばれるので論理だけでは不十分だという結論は崩れない。
あと、ここを勘違いしちゃいけないのだが、著者は論理を否定してないということ。でも限界はあるので別のことも備えましょうという意見なのだ。著者も論理を使っているし”不”十分という言い方をしている。


著者は論理の不十分さを指摘しているので、正しさの基準は論理以外からもってこなくてはいけない。そこを国家の判断が正しかったかそうでなかったかを歴史に求めたりしていて、なかなかうまい。筆者のいいたいことはよくわかる。
しかし、ここで提案されることをを実際に実現しようとすると問題だ。ここで提案されていることは、日本や世界が一度こけたことを、もう一度提案しなおしているだけである。例えば真のエリートが国を治めろというのは、官僚の腐敗などを思うと結局無理だと思う。官僚こそ例えば入省するときにはものすごい高い志をもっている。それこそ本書で言われているような情緒と形をもった真のエリートだ。でも、組織の中では、そのような自分の価値観を発揮できないのだろう。論理に限界があるなら、情緒と形にも限界はある。官僚がもっとちゃんとしろって言うのは簡単だが、問題はもっと複雑だと思われる。そしてそういうことは政治経済の専門家とかが良く考えていて、著者の言っていることはアイデアとしては納得できるけど、現実味は全然ない。


もうすこし大きな視点から議論を整理すると、この話はまんまモダンVSポストモダンであろう。
頭の整理がヘタな人、うまい人*3にこの対立がうまくまとまっているのでまるまる引用してみる(最近引用に逃げすぎな気が…)。

モダン ←→ ポストモダン
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理性重視 ←→ 人間は非理性的
世界は秩序だっている ←→ 世界は無秩序である
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人間中心主義 ←→ 人間以外の動物も重要
科学主義(科学によって環境を改善) ←→ 科学には限界がある
民主主義(国民が理性的に社会をコントロール ←→ 民主主義にも問題点が多い
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ヨーロッパ中心主義 ←→ 非ヨーロッパの文化重視
ピラミッド型社会構造 ←→ 多中心的社会構造
自我中心の世界観 ←→ 確固とした自我は存在しない
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グローバリズム ←→ 反グローバリズム
世界を先進国の価値観で普遍化 ←→ それぞれの民族の価値観を尊重
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デカルト マルクス サルトル ←→ ニーチェ フーコー ドゥルーズ デリダ

本書の中で論じられていることと上の表との共通項を書き出してみる。
科学を論理に置き換えて”論理に限界がある”、”民主主義にも問題点が多い”、”非ヨーロッパの文化を尊ぶ”、”反グローバリズム”。
これで言うと著者はとにかくこの図の右、ポストモダンな立場だ。一貫していて非常に分かりやすい。




バカの壁*4なんかもどちらかというとポストモダン的な傾向を示している。ベストセラーになるものが、こんなにレベルが高いっていうのが日本のすごいところだろう。人間が非理性的であるってことを国民全体がなんとなくでも認識しているなんて…とんでもない知的水準だ。日本人は賢いと思う。

*1:僕がここで述べているのは基礎中の基礎であって、もうすこし高度な論理もある。気になる人はロジカルプレゼンテーションを読むと実践的でためになると思う。

*2:命題論理、述語論理その詳しい内容は大学で記号論理学という授業をとるときっと解説してくれます。なかなか退屈ですけど…。

*3:頭の整理がヘタな人、うまい人 感想はこちら

*4:超有名なベストセラーです。いつかレビューを書く予定だったのですが、話題が散っていてまとめにくいんですよね…。なんにしろ知の限界を知るっていうのは大事なことですよね…くらいの感想でやめておくことにします。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)