海馬 -脳は疲れない- 池谷裕二 糸井重里
- 作者: 池谷裕二,糸井重里
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/06/26
- メディア: 文庫
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この本は二年前にでた本*1の復刊らしいが、非常に優秀な脳科学者と糸井重里の対談で
すごくおもしろかった。
脳は疲れない、30代からは物と物をつなぎ合わせる能力がどんどん増していくなど
励まされる内容が多い。
それに、脳ってほんとに分かってないと思っていたが結構わかっているんだなぁと感心した。
ぜひ読んで欲しい。
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ここからはこの本の内容と直接関係ないが、
ちょっと触発されたので
「われ思うゆえにわれあり」というデカルトの言葉への
反対意見を提示したい。
この思うというのはより詳しくいうとなんであろうか、
現代では認知という言葉に置き換えられるのではないかと思う。
なぜわれがあるのかという疑問は
なぜ我を認知するのかということに言い換えられる。
上の本によると我々の認知は神経細胞が担っていて
たとえばボールを認知するということは丸に反応する神経、縫い目に反応する神経
白に反応する神経などが同時に反応することを指す。
(実際にはもうすこし複雑っぽいが)
そういう意味では我を認知するというのはどの神経が反応しているのか。
我と我でないものはある程度随意に動かせるかどうかで判断しているのだろう。
この区別は人間が生きるうえで大切である。
自由に動かせるものと動かせないものを区別できなければ飯も食えない。
生きるうえで重要な感覚は覚えやすいということを考えると
我が生じるのは自然だ。
つまり、いろいろ仮定はしたが僕は
生きるうえで随意なものとそうでないものを区別するのが
重要なので我という概念が生じる
と主張したい。
僕のこの意見はともかく、昔の哲学者の結論などを
脳科学の認知形式の言葉で再び議論するのはおもしろいんじゃないかと思う。
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……とまぁ、この本を読むといろいろ思うことがあるので繰り返しになるがぜひ読んで欲しい。
*1: