大きな嘘と小さなホント

ある種のミステリは大きな嘘が好きなようだ。清涼院流水なんてそうで、歴史とからんだでかい話が好きなようだ。僕は読んでいないんだが、ダビンチコードや薔薇の名前フーコーの振り子も基本的にそういう傾向があると話に聞いた。


僕は思うのだが、嘘が嘘だと分かっている場合、ほんとっぽく見せようとしている嘘ほどあほらしい。どうしてこういうのが受けるのだろう??


舞城王太郎が「ある種の真実は嘘でしか語れない」と書いていたが、僕はそれにすごく賛成で、嘘をほんとっぽくするのではなく、嘘を使ってほんとのことを語って欲しい。


ほんとのことって何?って言われても困るのだけど、まぁ例えば厳しい状況下でこそキャッチャーインザライになりたいと思うとかそういうこと。