「八月の博物館」  瀬名秀明

唯物論の逆、観念論っていうのだろうか、
世界の存在は五感を通じて伝わってくるので
実際に物として存在しなくても同じ感覚が与えられれば
存在していると同じと見なす考え方がある。
(精密さを欠く言い方だが分かってもらえるだろう)

この考え方は生を自分の世界だけで人生を完結させることに
通じ易いのではないだろうか。
もっと言えば自分が気持ちいい世界に閉じこもることを肯定するのではないか。
例えば現実を生きているのと同じような刺激を脳に与え続けることと
現実を生きることは当事者からすれば区別できないことになる。
映画で言えばバニラスカイなんかがこれをテーマにしている。
バーチャル世界は
管理された世界で気持ちいい世界であるので人はこちらを選択し易い。

僕はここにすごく気持ち悪さを覚えていた。
別に観念論を否定するつもりはない。
しかし自分の世界に閉じこもることを肯定することには気持ち悪さを覚える。
自分で世界をくぎり、予定調和の中に人生を置くことは
自らの可能性をもまた区切ってしまう。
簡単に言えば,その世界にいると人は成長しない。
そんな成長なき世界に生きることは僕は到底肯定できない。

最終的にはこれと関連したことなのだが
僕は人はなぜFICTIONを求めるのかを疑問に思っていた。
この疑問には僕自身の感覚の変化が起因している。
僕は自分の成長に役に立つものを読む傾向にあった。
例えば新書とかいろんな知識を溜め込むために本を読むことが多かった。
しかし大学院生になるくらいから
単なるミステリーとか娯楽のための物語を読むようになった。
正直こういうものが何か文章力が上がったり
実質的な効果をあげることはないだろう。
人はなぜか娯楽のために物語を求めるのである。

そこらへんの端的な答えやもっとおもしろい構造なんかを
この「八月の博物館」は含んでいてとてもおもしろかった。

物語の問題は人間の自由意志の問題とも関わりがあると思う。
僕らの生きている世界は誰かの書いている文章なのだろうか?
これは荒唐無稽な質問のようだが僕らがそれを
確かめる方法はないように思われる。




駄目だ。なんだかまとまらないのでまた気が向いたら書くことにする。

                                                                                                                                                              • -