人は見たいものしか見ず、信じたいものしか信じない

”人は見たいものしか見ず、信じたいものしか信じない”とかそれに類する表現というのはよく聞く文言ですが、児童ポルノ法の話や非実在青少年条例の話を調べていると特にそれを感じます。

僕はもちろんアニメや漫画に限らない創造物を愛する立場から、こういった法令には反対なのですが、反対している同志のブログを見ると陰謀論や誹謗中傷があふれており、悲しくなります。自分が一般人だったらと仮定して読むと、規制反対の意見に合理性を感じられませんでした。

児童ポルノ根絶は何事にも優先する”というのも、”表現の自由の侵害に断固反対”というのはどちらも極端な意見で、こういったバランス感覚の失調こそ真に避けなければならないことだと思われます。

そこを踏まえた上で、まず訴えかけたいのは、児童ポルノ法にしろ、非実在青少年条例にしろ、この法律によって具体的な利益を得るのは被害者ではないということです。国会で宮沢りえサンタフェ児童ポルノにあたるかどうか議論されたのを覚えてらっしゃる方は多いと思いますが、本人の意思でとった写真集が児童ポルノとなるならば、児童ポルノを製造した篠山紀信は犯罪者となってしまいますね。それは宮沢りえの本意でしょうか。児童ポルノ法が第一に守っているのは”児童ポルノは存在してはならない”という規範で、もしその規範が実際の犯罪を減らすのならば被害者が減るだろうという推測に基づいて間接的に実際の児童を守っています。しかし、そんな規範の浸透の高さ(あるいはそれを醸成するための法律)が実際の犯罪を減らさないということは統計的には明らかです。このことは直観には反するので信じたくない人は信じません。

"虐待された児童の人権を守る"ことは大事なことですが、”児童ポルノは存在してはならない”という規範は残念ながらそこまで重要なことではないのです*1。それに対してエッチな創造物を規制すると、その製作者が暮らしていけなく可能性があり、酷い人権侵害だと思います。芸術性や政治性のないものの表現の自由は軽んじられる傾向にあるそうですが、こうした経済活動の自由の侵害は、個人的には表現の自由よりも重大な人権侵害になりうると思います。エッチな創造物を読む権利やそうした創造物を目の届くところに置きたくない権利は、僕の価値観ではだいたい同じぐらいの重要度です。ゾーニングすることで双方の利益が守られるのでそれがベストだと思われます。

どうも僕らは一人が我慢してみんなが得をすることを美談と思いがちですが、実はいじめもそうした構造を持っています。憲法はそうした力関係をひっくり返し、弱小の個人を守ってくれるものです。一人の個人の人権は集団のちょっとした自己満足のためにつぶされてはいけません。もし国民が全体の利益のために一人の利益をないがしろにすることを是とするなら、民主主義から全体主義が生まれナチスの再来ですね。

条例に関してですが、そもそも反社会的な創造物から悪い影響を受けて青少年が被害をこうむった事件はあるのか気になります。完全自殺マニュアルなどは実際に被害者が出ているという意味で規制されても仕方ないものだと思われます(すみません。これはあんまり現状を調べず発言しています。完全自殺マニュアルの是非も”明らか”ではなく、データと深い考察をもって決めることです。)。とあるマンガのせいで人生が狂ったとか、確実にそう言える事例はありますかね。もしあるのなら、少なくともその本の規制は致し方ないと言わざるを得ないです。それは僕にとっては”信じたくないこと”ですが。。。

青少年や保護者に、信頼のおける方法でアンケートをとり、実際のデータを根拠に規制するしないを議論して欲しいと思います。ちなみにあくまで青少年をメインターゲットにしてほしいですね。青少年の健全育成に関する法律が青少年の利益を守るものではなく、保護者の利益を守るものとなってしまってはいけません。

今日のところは以上です。

*1:この考えを初めて聞く方には違和感があるかもしれませんが、法律を考える際の常識的な観点です。法律によって守られる利益を法益と呼びます。法益には個人的なものと社会的なものがありますが、ここでは児童ポルノ法が個人的な法益を守るために作られたのに実際の法文や運用が第一に社会的法益を守っていることを問題にしています。